参加者:伊藤、川上、熊谷、小杉、芳賀、増田、南島、山崎、大槻(幹事) 計9名
・日 付:2006年1月2日(月)
・集 合:12時50分 新宿駅南口小田急改札前
・新年会:13時~15時 喬の倉
『蕎』コース飲み放題付き 4,200円
・温 泉:15時半~18時 豊島園「庭の湯」2,250円+1~2杯代+往復520円
・解 散:18時半 新宿
※「庭の湯」は、祖師谷温泉や他の東京の温泉と同じ黒い温泉です。
幹事さん ありがとー!
参加者:伊藤、川上、熊谷、小杉、芳賀、増田、南島、山崎、大槻(幹事) 計9名
・日 付:2006年1月2日(月)
・集 合:12時50分 新宿駅南口小田急改札前
・新年会:13時~15時 喬の倉
『蕎』コース飲み放題付き 4,200円
・温 泉:15時半~18時 豊島園「庭の湯」2,250円+1~2杯代+往復520円
・解 散:18時半 新宿
※「庭の湯」は、祖師谷温泉や他の東京の温泉と同じ黒い温泉です。
幹事さん ありがとー!
▲明治40年ころの新宿駅
1885年(明治18年)に日本鉄道により現在の山手線が開業したのが当駅の始まりである。
4年後の1889年(明治22年)には南豊島郡淀橋町となる。開業時から新宿を副都心にする計画が発表される迄は当駅周辺はまだ街の外れであり利用客は少ないものだったが、大正期に入り次第に市街地が拡大するにつれ、多くの私鉄が乗り入れるようになる。ターミナルとなって周辺が発展するにつれて利用客は増え続け、さらに1960年代から当駅西側一帯で進められた新宿副都心計画によって多くの超高層ビルが建てられ、利用者の増加に拍車がかかった。
そして、1966年(昭和41年)に池袋駅を抜いて乗車人員数日本一になった[1]。同年の当駅の乗車人員数は44万69人で、池袋駅の44万67人をわずか2人上回っての日本一だった。
現在ではJR・私鉄・地下鉄の多くの路線が周辺地域のベッドタウンとを結んでおり、多くのビジネス客が利用する。また、当駅周辺は日本最大の繁華街・歓楽街となっており、昼夜を問わず人の流れが絶えることはない。JRの駅を中心に東・西・南口、周辺の各地下鉄駅、商業施設などが通路や地下街などで広範囲に連絡している。
一日平均乗降者数は346万人と世界一(ギネス世界記録認定)多い駅であり、地下道などで接続する西武新宿駅まで含めると364万人以上になり、この数字は横浜市の人口に匹敵する。
内藤新宿は、品川(東海道)、板橋(中山道)、千住(日光街道、奥州街道)と併せて四宿(ししゅく)と呼ばれ、江戸の新たな行楽地としても発展し、岡場所(非公認の売春宿)などが繁盛して、
「四谷新宿馬の糞の中で あやめ咲くとはしほらしい」
(馬の糞は活発な馬の往来、あやめは飯盛女・遊女を意味する)と狂歌に詠われている。
これらが災いし、1718年(享保3年)に風紀上の理由から一時廃駅となるも、1772年(明和9年)には復活している。
歓楽街としての新宿の原型は、この時代に既にあったといえるだろう。
このころ太宗寺は、江戸六地蔵のひとつに数えられ、庶民の信仰を集めていた。
また成覚寺は、遊女などの投げ込み寺であった。
投げ込み寺と言えば 三ノ輪の浄閑寺 (T_T)
元禄12年(1699年)に新しい宿場「内藤新宿」が開設された
内藤新宿(ないとうしんじゅく)は、江戸時代に設けられた宿場の一つ。
甲州街道に存在した宿場のうち、江戸日本橋から数えて最初の宿場であり、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(青梅街道)の起点でもあった。
現在の住所では、東京都新宿区新宿一丁目から二丁目・三丁目の一帯にあたる。
東海道の品川宿・中山道の板橋宿・日光街道(奥州街道)の千住宿と並んで、江戸四宿と呼ばれた。地名から四谷新宿と呼ばれることもある。
江戸時代、甲州街道は江戸から甲府までの主要街道として整備されたが、第一の宿場は高井戸であり、距離が長く、旅人は難儀をしたという。
そのうち、現在の新宿二丁目近辺に人家ができ、1625年(寛永2年)には住民の願いにより、太宗寺門前の町屋ができ、これを内藤宿と呼ぶようになった。
「宿」とはいっても、正規の「宿場」ではなく、甲州街道や成木街道(現:青梅街道)を利用する人馬が休憩所として利用していたので、「新宿」と呼び習わすこととなったという。
新宿は 二丁目から 始まったんだね (^_^;)
新宿と内藤氏とのつながりは、豊臣秀吉により後北条氏が滅ぼされ、徳川家康が江戸に入府する直前の1590年(天正18年)7月にさかのぼる。
内藤清成は、三河時代より、徳川家康の小姓として仕えていた。
徳川家康が江戸へ入府するのに先立ち、後北条氏の残党への警備のため、内藤清成は鉄砲隊を率いて、甲州街道(国府道)と鎌倉街道が交差していた、現在の新宿二丁目付近に陣を敷いた。
この功が認められ、内藤清成は付近一帯を拝領し、中屋敷(上屋敷は神田小川町、下屋敷は下渋谷にあったという)を構えた。
なお、内藤清成が率いていた鉄砲隊は、1602年(慶長7年)に伊賀組鉄砲百人組として大久保に配置され、新宿区百人町の名のもととなっている。
この拝領に際しては、徳川家康が「馬が一息で駆け巡るだけの範囲を与える」と伝えたため、内藤清成は馬に乗り、榎の大木を中心に、東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保におよぶ広大なエリアを駆け続け、その馬はついに倒れて、まもなく死んでしまったというエピソードがある。
内藤清成の名前は 地名(新宿区内藤町) として残っています
新宿高校の住所も 「新宿区内籐町11-4」 です
内藤清成 まさか二丁目がこうなるとは 夢にも思わなかったでしょう (^_^;)