80【ヒストリー】

仮宿場「内藤宿」できる

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江戸時代、甲州街道は江戸から甲府までの主要街道として整備されたが、第一の宿場は高井戸であり、距離が長く、旅人は難儀をしたという。

そのうち、現在の新宿二丁目近辺に人家ができ、1625年(寛永2年)には住民の願いにより、太宗寺門前の町屋ができ、これを内藤宿と呼ぶようになった。

「宿」とはいっても、正規の「宿場」ではなく、甲州街道や成木街道(現:青梅街道)を利用する人馬が休憩所として利用していたので、「新宿」と呼び習わすこととなったという。

新宿は 二丁目から 始まったんだね  (^_^;)

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内藤清成が新宿周辺を拝領

01300000297717124764514279506_s 新宿と内藤氏とのつながりは、豊臣秀吉により後北条氏が滅ぼされ、徳川家康が江戸に入府する直前の1590年(天正18年)7月にさかのぼる。

内藤清成は、三河時代より、徳川家康の小姓として仕えていた。

徳川家康が江戸へ入府するのに先立ち、後北条氏の残党への警備のため、内藤清成は鉄砲隊を率いて、甲州街道(国府道)と鎌倉街道が交差していた、現在の新宿二丁目付近に陣を敷いた

この功が認められ、内藤清成は付近一帯を拝領し、中屋敷(上屋敷は神田小川町、下屋敷は下渋谷にあったという)を構えた。

なお、内藤清成が率いていた鉄砲隊は、1602年(慶長7年)に伊賀組鉄砲百人組として大久保に配置され、新宿区百人町の名のもととなっている。

この拝領に際しては、徳川家康が「馬が一息で駆け巡るだけの範囲を与える」と伝えたため、内藤清成は馬に乗り、榎の大木を中心に、東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保におよぶ広大なエリアを駆け続け、その馬はついに倒れて、まもなく死んでしまったというエピソードがある。

 

内藤清成の名前は 地名(新宿区内藤町) として残っています

  新宿高校の住所も 「新宿区内籐町11-4」 です

内藤清成 まさか二丁目がこうなるとは 夢にも思わなかったでしょう  (^_^;)