80【ヒストリー】

内藤新宿 復活

 

歌川広重名所江戸百景』より「四ッ谷内藤新宿」

内藤新宿は、品川(東海道)、板橋(中山道)、千住(日光街道、奥州街道)と併せて四宿(ししゅく)と呼ばれ、江戸の新たな行楽地としても発展し、岡場所(非公認の売春宿)などが繁盛して、

「四谷新宿馬の糞の中で あやめ咲くとはしほらしい」

(馬の糞は活発な馬の往来、あやめは飯盛女・遊女を意味する)と狂歌に詠われている。

これらが災いし、1718年(享保3年)に風紀上の理由から一時廃駅となるも、1772年(明和9年)には復活している。

歓楽街としての新宿の原型は、この時代に既にあったといえるだろう。

このころ太宗寺は、江戸六地蔵のひとつに数えられ、庶民の信仰を集めていた。

また成覚寺は、遊女などの投げ込み寺であった。

投げ込み寺と言えば 三ノ輪の浄閑寺 (T_T)

宿場「内藤新宿」開設

元禄12年(1699年)に新しい宿場「内藤新宿」が開設された

内藤新宿(ないとうしんじゅく)は、江戸時代に設けられた宿場の一つ。

甲州街道に存在した宿場のうち、江戸日本橋から数えて最初の宿場であり、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(青梅街道)の起点でもあった。

現在の住所では、東京都新宿区新宿一丁目から二丁目・三丁目の一帯にあたる。

東海道品川宿中山道板橋宿日光街道奥州街道)の千住宿と並んで、江戸四宿と呼ばれた。地名から四谷新宿と呼ばれることもある。

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仮宿場「内藤宿」できる

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江戸時代、甲州街道は江戸から甲府までの主要街道として整備されたが、第一の宿場は高井戸であり、距離が長く、旅人は難儀をしたという。

そのうち、現在の新宿二丁目近辺に人家ができ、1625年(寛永2年)には住民の願いにより、太宗寺門前の町屋ができ、これを内藤宿と呼ぶようになった。

「宿」とはいっても、正規の「宿場」ではなく、甲州街道や成木街道(現:青梅街道)を利用する人馬が休憩所として利用していたので、「新宿」と呼び習わすこととなったという。

新宿は 二丁目から 始まったんだね  (^_^;)

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内藤清成が新宿周辺を拝領

01300000297717124764514279506_s 新宿と内藤氏とのつながりは、豊臣秀吉により後北条氏が滅ぼされ、徳川家康が江戸に入府する直前の1590年(天正18年)7月にさかのぼる。

内藤清成は、三河時代より、徳川家康の小姓として仕えていた。

徳川家康が江戸へ入府するのに先立ち、後北条氏の残党への警備のため、内藤清成は鉄砲隊を率いて、甲州街道(国府道)と鎌倉街道が交差していた、現在の新宿二丁目付近に陣を敷いた

この功が認められ、内藤清成は付近一帯を拝領し、中屋敷(上屋敷は神田小川町、下屋敷は下渋谷にあったという)を構えた。

なお、内藤清成が率いていた鉄砲隊は、1602年(慶長7年)に伊賀組鉄砲百人組として大久保に配置され、新宿区百人町の名のもととなっている。

この拝領に際しては、徳川家康が「馬が一息で駆け巡るだけの範囲を与える」と伝えたため、内藤清成は馬に乗り、榎の大木を中心に、東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保におよぶ広大なエリアを駆け続け、その馬はついに倒れて、まもなく死んでしまったというエピソードがある。

 

内藤清成の名前は 地名(新宿区内藤町) として残っています

  新宿高校の住所も 「新宿区内籐町11-4」 です

内藤清成 まさか二丁目がこうなるとは 夢にも思わなかったでしょう  (^_^;)