新宿高校22回生の塩崎恭久さんが第2次安倍改造内閣において、厚生労働大臣に就任されました。
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塩崎 恭久(しおざき やすひさ、1950年(昭和25年)11月7日 – )は、日本の政治家。
自由民主党所属の衆議院議員(6期)、厚生労働大臣(第2次安倍改造内閣)、自民党愛媛県連会長。
参議院議員(1期)、衆議院法務委員長、内閣官房長官(第73代)、拉致問題担当大臣等を歴任。
愛媛県松山市生まれ。
東京都立新宿高等学校卒業後、駿台予備学校で1年間の浪人生活を送った後、東京大学に入学する。
1975年、東京大学教養学部教養学科アメリカ科を卒業し、日本銀行に入行。
1982年にハーバード大学大学院(ケネディスクール)を修了し、行政修士号を取得した。
同年、父・塩崎潤の経済企画庁長官就任に伴い、日銀を退職し父の秘書官に転じる。
後に日銀に復職した。
1985年、父の総務庁長官就任に伴い再び日銀を退職し、再度父の秘書官を務めた。
1993年、父・潤の引退を受け、第40回衆議院議員総選挙に旧愛媛1区から自由民主党公認で出馬し、初当選。
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高校時代は学生運動・学園紛争の全盛期にあたり、塩崎も新宿高校では生徒会長も務めたが、学生運動への参加を嫌う学校側に対し、自由な運動の容認を要求し、校長室を数人で占拠して10日間のストライキを行う等した。
高校時代にAmerican Field Service(AFS)で1年間のアメリカ留学を経験。
その際、ベトナム戦争に反対する集会にも参加していた。
新宿高校での学生運動の中心は塩崎恭久、坂本龍一、馬場憲治で、3人でバリケード封鎖等を行った。
坂本から「どうせ、おまえはそのうち自民党の代議士になるんだろうから、そのときは応援に行ってやるよ」と言われていた。
その後、坂本とは学生時代に女性問題をめぐって袂を分かっていたが、坂本がアカデミー賞を受賞した際に塩崎が祝いを送り、交流が再開。
坂本は塩崎の応援演説へ駆けつけた。
元日本共産党参議院議員の筆坂秀世とは参議院議員時代、清水谷の参議院議員宿舎の大浴場でしばしば談笑した、文字通り裸の付き合いの間柄だったという。
内閣官房長官時代は午前5時に起床し、各方面にメールで指示を出すスタイルで知られ、土日返上で閣僚や官僚と打ち合わせを行う等、初入閣ながら精力的に仕事をこなした。
官僚依存から脱却するための行政改革を推進し、事務方が上げた人事案を度々ひっくり返し、年金記録問題でも厚生労働省や社会保険庁の尻を叩き続けたため、「官僚嫌いの長官」と恐れられていたといい、塩崎本人も「霞が関で最も嫌われる政治家」を自認していた。
能力については、行革担当相の渡辺喜美ら共に公務員の天下り規制の強化に取り組み、自民党内の慎重派や官僚を相手に粘り強い交渉を展開して「男を上げた」との評価がある一方、「安倍お友達内閣」の象徴とも揶揄された。
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『日本復活 「壊す改革」から「つくる改革」へ』(プレジデント社刊)
『日本経済起死回生トータルプラン』(石原伸晃、根本匠、渡辺喜美らとの共著 光文社刊)
『「国会原発事故調査委員会」立法府からの挑戦状』(東京プレスクラブ新書)
ロバート・ライシュ他『アメリカの挑戦』(中岡望らとの共訳 東洋経済新報社)
スヴェン・スティンモ『税制と民主主義―近代国家の財政を賄うためのスウェーデン・イギリス・アメリカのアプローチ』(塩崎潤と共訳 今日社刊)
そろそろ 総理大臣を ねらって欲しい (^_^;)