..皇居

毎日新聞「母校を訪ねる」シリーズ

WS000000元新宿高教師・佐藤喜一さん

新宿高校1948年度卒

 東京都立新宿高校の長い歴史の中には、多くの名物教師が存在した。新制高校第1期の卒業生で、国語教師として24年間母校の教壇に立った佐藤喜一さん (86)=1948年度卒=もその一人。「新宿高のレジェンド」が、30年にわたる母校の日々を語った。

 生まれは東京都の北区十条。池袋にあった豊島師範付属小に通い、同級生が多く行ったので新宿高の前身の旧制府立六中に進学を決めました。入学した年は 1943(昭和18)年4月の戦中期。入学式翌日は明治神宮に参拝。朝礼の時はまず皇居遥拝(ようはい)、続いて新宿御苑に最敬礼でした。

 勉強もしましたが、軍事訓練が多かった。夏休みは陸軍の兵営で行軍などの訓練。中学2年の時には勤労動員で軍需工場へ行きました。給料は月給30円。戦後に支払われたけど、物価が急に上がり、焼け石に水でした。

 終戦後、学校は一変しました。それまで「お国のために」というのに、急に「民主主義とは」なんて。不信感を持ちました。授業はあってもテキストがない。英語の木村武雄先生は小泉八雲の怪談をガリ版刷りにしてオリジナルのテキストを作ってくれました。

 戦後、部活動も始まりました。鉄道が好きだったので、仲間と鉄道研究会を作り、部品を集めて「Oゲージ」の鉄道模型を作り文化祭で走らせました。

 学校近 くの伊勢丹本店が接収され進駐軍の宿舎でした。部活で帰りが遅くなった夕暮れ、校門を出ようとすると派手な化粧をして米軍兵士を相手とする女性がたむろし ている。ちらりと横目で見ながら「負けたんだ」とつぶやいたものです。

 49年、旧制中学から新制高校に変わった都立第六高(50年に新宿高に校名変更)の第1期生として卒業し、鉄道のエンジニアになりたくて、東京都立大工 学部に入学。その後、教養課程で学んだ文学の方に興味を持って、国文学専攻で卒業、さらに修士課程まで進み、国語教師になりました。

 都立富士高を経て青山高で教えていたころ、新宿の5代目校長の沢登哲一先生が、「母校に帰って来いよ」と声をかけてくださった。そして、先生が退職され た63年春から母校で働くようになったんです。沢登校長は名物校長の誉れ高き方。豪放磊落(らいらく)でお酒好き、教員にも心酔者が多かった。

 先生方もユニークな方が多かったです。いろいろな教員がいる中でも一致していたのは、「私たちの職場は私たちできちんと運営していく」というところで す。当時教頭は教員の中から互選していました。校務分掌も、一切教師が決めました。そういう自主的な校務運営が、自主性を尊重する新宿高の校風を育てたよ うに私は思います。

 教師としての私を支えてくれた言葉があります。「学ぶとはこころにまことを刻むこと。教えるとはともに未来を語ること」。フランスの詩人ルイ・アラゴン の言葉です。必ずしも、この通りに実践したとも思っていませんが、一人一人の可能性の灯を、いかにしたら美しく燃焼させることができるか、考えながら生き てきたつもりです。

 新宿高の魅力は、御苑のみどりから知らず知らずのうちに薫陶を受けているといったところでしょうか。旧制六中校歌の一節に「木々の翠(みどり)を見やり つつ 学ぶ心の清きかな」とあります。これがとってもいい。都心の真ん中にありながら、御苑のみどりを感じながら、朝日のごとくさわやかな生徒たちと過ご せたことは、実にありがたい人生だったと思っています。

記憶に残る「名物先生」 ユニークな授業で慕われ

 新宿高校には多くの生徒が記憶にとどめる「名物先生」が多数在籍した。兼職が認められた時代は進学塾講師を兼任したり、専門性を磨いて大学の教授に転職した先生も。10年、20年と長期在籍する先生も数多くいた。

 1970年から20年間在籍した音楽担当教諭の野村満男さん(81)は、日本のチェンバロ製作・研究の第一人者としての顔も持つ。「基本はバロック音楽 にあり」との思いから、関わりの深いチェンバロを使った指導を思い立ち、試行錯誤の末、手作りで完成させたのがきっかけ。生徒に実際にチェンバロを製作さ せてバッハを演奏させ、評判を呼んだ。坂本龍一さんの教育実習の際の指導教官も務めるなど、多くの音楽家を育てた。

 50年から22年間在籍した英語担当の澤正雄さん(故人)といえば、名物「くるくるとん」。教え子の斎藤成(はかる)さん(61)=72年度卒=による と、ペンをくるくる回して出席簿に落とし、そこに名前のある生徒から当てて授業を始めたことから、この異名がついた。

 毎回、当てられた生徒の悲鳴や当たらなかった生徒の安堵(あんど)の声が教室に響いたという。慕う生徒も多く、退職後、卒業生有志が澤さんにまつわる本 を2冊自主出版した。斎藤さんは「生徒を優しく厳しく見つめてくださり、感謝している」と振り返る。=次回は最終回。26日に、卒業生の読者からいただい た「私の思い出」を掲載します


卒業生「私の思い出」募集

 都立新宿高校(旧府立六中含む)の卒業生のみなさんから「私の思い出」を募集します。300字程度で学校生活や恩師、友人の思い出、またその後の人生に 与えた影響などをお書きください。卒業年度、氏名、年齢、職業、住所、電話番号、あればメールアドレスを明記のうえ、〒100−8051、毎日新聞地方部 首都圏版「母校」係(住所不要)へ。メールの場合はshuto@mainichi.co.jp.へ。いただいた「思い出」は毎日新聞やニュースサイトで紹 介することがあります。新聞掲載の場合は記念品を差し上げます。


さとう・きいち

 1930年東京生まれ。東京都立大学大学院修士課程(近代日本文学専攻)修了。新宿高での教え子には芥川賞作家の絲山秋子さんもいる。退職後は駿台予備 学校講師などを務め、現在は鉄道エッセイストとして活躍。著書に「汽笛のけむり 今いずこ」(第25回交通図書賞受賞)など。

大手町温泉

sty1510130011-f1詳細はここをクリック

2016050600010_2東京都心・大手町で、いよいよ天然温泉に入れる日がやってくる。

←温泉の上は、こんなビル。

オフィスビルの摩天楼が立ち並ぶ大手町の一丁目。

5月9日にオープンする「大手町温泉」と名づけられた湯は、地下1500メートルの深さからくみ上げられている療養泉だ。

湯をすくってみれば、ほんのりと茶褐色。

つかってみると、とろりとした肌触りが心地よく、湯冷めしにくいという。

泉質は「含よう素-ナトリウム-塩化物強塩温泉」。食塩泉とも呼ばれるタイプの温泉で、殺菌・保湿効果に優れている。

神経痛や打撲、関節痛、胃腸機能の低下などに効能があるほか、冷え性やうつ状態、皮膚の乾燥も適応症だ。

都心のオフィス街に働いている人にとってはまさに 癒やしの泉かもしれない。

なめらかな湯に全身を沈めてリラックスしていると、ここが日本屈指のビジネス街だということを忘れてしまう。

お風呂 大好き (^_^;)

続きを読む

日本の城ランキング

平成の大修理中の姫路城大天守(奥)=2014年8月、兵庫県姫路市本町

行ってよかった!

「日本の城」人気ランキング

世界最大の旅行口コミサイトが「行ってよかった!日本の城ランキング2014」を発表。トップ20には四国から新たに4か所がランクインし、エリア別では、愛媛県、兵庫県、沖縄県から3か所が選ばれ、全国各地の名城の集うランキングとなった。

《「行ってよかった!日本の城ランキング2014」》
世界最大の旅行口コミサイト 「TripAdvisor」上に投稿された過去1年間の口コミ評価をもとにしたランキング。2014年度版は、2013年6月~2014年5月の1年間に 投稿された日本の城(城址含む)に投稿された日本語の口コミを、星評価(5段階)の平均、口コミの投稿数などをもとに、独自のアルゴリズムを集計したも の。

油をかけられませんように (^_^;)

明治通りのバイパス道路

新宿駅周辺の明治通りと御苑通りの位置(資料:東京都などの資料を基にケンプラッツが作成)

池袋と新宿、渋谷の3つの副都心をつなぐ明治通り。

JR山手線の内側に沿って走る東京都内の幹線道路だ。

慢性的な交通渋滞が問題となっているJR新宿駅の東側で、明治通りのバイパスをつくる工事が静かに進んでいる。

当初の計画が決まったのは、今から約70年前。

しかし、バイパスは開通することなく、長らく止まったままになっていた。

希少な樹木の群落がある新宿御苑の敷地に道路が掛かる計画となっていたからだ。

バイパスを整備する東京都は2005年、道路の構造を見直してこの群落を回避できるように計画を改めた。

工事は2010年からスタート。

2020年の東京五輪を前に、ようやく開通のめどがついた。

 

我々の在学中から 問題になっていた道路

一時は新宿高校が 移転になりそうだった  (^_^;)

 

続きを読む

天皇陛下 インテグラで爆走?

 

皇居一般参賀に行って ちょっと皇室オタクしてます

79歳の天皇陛下は運転免許をお持ちで

高齢者講習も受けた 現役ドライバーです

この動画 音と再生スピード 変ですね  (^_^;)

 

 

皇居ライトアップ

 

天皇誕生日の23日から来月6日まで

 

0121217at36_p

 

宮内庁は17日、天皇誕生日の23日から来月6日まで二重橋など皇居内3カ所をライトアップすると発表した。

時間は午後5~10時で、富士見櫓(やぐら)と伏見櫓も照らし出される。

皇居のライトアップは、1964年10月に東京五輪を記念して実施された例があるが、これまでは宮中晩さん会の夜に行われていただけだった。

近年、皇居周 辺の丸の内地区でライトアップイベントが定着していることなどを受け、周辺環境と調和した夜間景観づくりを狙うという。

 

節電で街が暗いのも 不景気の原因のひとつかも (^_^;)

 

訃報 中村勘三郎(57)

 

           

人気歌舞伎俳優の中村勘三郎(本名・波野哲明)さんが12月5日午前2時33分、急性呼吸窮迫(きゅうはく)症候群のため東京都文京区の病院で死亡した。

57歳。昭和30年5月30日生まれ。

 

ショック! ((((;゚д゚))))

続きを読む

卒業70周年同期会

 

府立六中16回卒業にちなんで名付けた「朝陽十六会」は、毎年6月16日(6・16)に開く慣例になっている。

卒業70周年を迎えたことし2012(平成24)年も、6・16に皇居を見下ろす丸の内の「日本倶楽部」で開催した。

この日のために遥々、ハワイから駆けつけた五味君始め、次の11人が参加した。

宇田川敏夫、大塚惟謙、岡崎久、粕谷俊治、加藤秋夫、五味淳芳、白石辰巳、田中正春、内藤道興、山埜井乙彦、渡辺和郎

午後零時半過ぎ、この倶楽部の理事も務めている大塚惟謙世話人代表の、卒業70周年を祝うあいさつ、乾杯で開会。事務報告、しばらく歓談のあと、全員が近況、思い出話、級友の消息などを述べる。

「ハワイで毎週、テニス、ゴルフ、山登りと、元気で忙しく過ごしている」

「海軍兵学校に遅れて入ったために、生き残ることができた」

「もっと早く、この会に出席したかった」

…予定の2時を過ぎても話は尽きず、最後に、田中正春君が歌詞を用意してくれた「六中校歌」「健児の歌」を斉唱して記念撮影、2時半にようやく散会した。

太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年の翌春卒業したわれわれ16回生は、途中入退学などを含めると316人になる。

それから70年経った現在では、58%に当たる184人が亡くなり、20%の62人が行方不明。残る現会員はわずか22%の70人だけ。

全員が満88歳前後だから、出欠の返事には何らかの持病と悪戦苦闘している級友の姿が浮き彫りになっている。

幸い出席の11人は皆元気一杯で、来年も6月16日に、同じ「日本倶楽部」で再会することを決めたが、16日は日曜日で休館とわかり、一日繰り上げて6月15日(土)に開催する。できるだけ多くの会員が参加することを祈っている。

戦災などで「卒業アルバム」を失った人もあるので、白石辰巳君保存のアルバムに、2000年以降の「十六会」写真を加えたDVDを、パワーポイントで作成し、出席者に配布した。70年前の若き日の級友や自分の姿を見て、「よくぞ、ここまで生きてきた」と感慨無量のものがある。

また生前、毎回出席してくれた元日銀総裁速水優、元平凡社社長下中邦彦、昨年までこの会を代表した臼田義弘ら諸兄の、元気な姿も見える。

われわれ一同は卒業70周年に当たり、亡くなった多くの級友たちのご冥福を祈るとともに、この会を今日まで存続、発展させてくれた世話人諸兄に、心から感謝の気持ちを捧げる。 (山埜井記)

 

山埜井、白石、粕谷、渡辺、宇田川、加藤

田中、岡崎、大塚、内藤、五味 (敬称略)

 

卒業35年なんて、まだ半分ですね (^_^;)