1969年度卒
「母校をたずねる」は今月から、東京都立新宿高校(新宿区内藤町)編を連載します。
日本を代表する大繁華街の一角にある同校は、政治や文化など幅広い分 野で時代のリーダーを輩出してきました。
初回は、平和や環境問題などへの幅広い発言でも知られる音楽家、坂本龍一さん(64)=1969年度卒=が、その 高校時代を語ります。
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小学2年で引っ越した世田谷区(東京都)では、当時、「新宿高に行く」というのはある種のステータス。当時の世田谷は田んぼに蛇がいたり、ツクシが生えていたりする自然あふれる場所。そんな田舎の子にとって、新宿という大都会に通うことは大きな変化でした。
入学後まずしたのは、事前に調べた新宿のジャズ喫茶約30軒を、1カ月かけて全部まわったこと。うち2軒を気に入りました。人生で一番映画を見た時期で もあります。印象的なのはジャン・リュック・ゴダールの「気狂いピエロ」。人生で一番好きな映画です。音楽の勉強もしました。当時珍しかった現代音楽を聴 かせてくれる催しに、1人で足を運びました。
印象に残る先生は、現代国語の前中昭先生です。最初の授業で衝撃 を受けました。「俺はお前たちに興味がない」なんて言って。びっくりして、でも面白いと 思って、授業が終わって職員室に追いかけていきました。そうしたら向こうも面白がってくれたのか、以来、友達みたいな関係になりました。彼が病気の時、コ ンサートで「マエナカにささげる」と言って演奏したこともあります。亡くなってしまいましたが、彼が当時話した言葉の意味が今になってわかったり、いまだ に大きな存在です。
学生運動の影響も受けました。1年生の4月、登校したら3年生が頭から血を流している。聞くと、機動隊にやられて帰ってきたという。ショックを受けて「これは、やらなきゃだめだ」と、全国的なデモに何度も足を運びました。
3年生だった1969年11月5日、定期テストや制服の廃止などを求めて校長室を占拠しました。クラスメートの塩崎恭久くん(厚生労働相)や馬場憲治く ん(マルチクリエーター)も一緒です。当日は朝からやる約束だったんですが、僕は遅刻した。母親が起こしてくれなくて……。まあ、そのくらい甘ちゃんだっ たんですよ。いろいろな先生と話し合いました。皆さん真摯(しんし)に対応してくれ、結局、全ての要求が通りました。
新宿高らしさ、といって一番に思うのは「バンカラ」ということ。下駄をはいてしょうゆで煮しめたような制帽をかぶり、腰に手ぬぐいをつけた先輩など、戦前の旧制高校の雰囲気が多分にあった。
日比谷高や戸山高はお坊ちゃん的な感じだけど、新宿はバンカラ。でも優秀な生徒がたくさんいて、雑多さと知性が同居している学校でした。音楽はもちろん、考え方、人とのつきあい方、映画。今につながる全てが新宿高で培われました。
60年代の終わりの、今でいうサブカルチャーが成熟してきた時代。その中心が新宿だった。多様性とか新しい価値観のるつぼのような場所に、ただでさえ多感な10代後半の時期に居ることができて、ラッキーでした。
今の若い人と話すと、すばらしいと思います。一見主張しないような子でも、話してみると、とてもしっかりしていて、大人をよく見ている。ただ、今の日本 はとても心配な状況です。脱原発や安保法制反対を訴えるのは、子どもたちが将来、よりひどい状況にさらされるとしたら、それは今の大人の責任だと思うか ら。言うべきことは言わなければならないと思っています。
生徒伸び伸び 自主性尊重の歴史
「全員指導者たれ」。新宿高で今も引き継がれる、阿部宗孝・初代校長が打ち出した校是だ。1922(大正11)年、東京府立六中(旧制)として開校した同校は、時代の影響を受けて変化しつつも、その精神を受け継いできた。
戦中には軍国主義の波にのみ込まれたが、戦後はいち早く教員の間に教育民主化への機運が高まった。60年代には毎年100人前後が東京大に進学する全国 屈指の進学校となったが、当時の教員が「生徒は伸び伸びと遊び、いつ勉強しているのかと不思議だった」と振り返るほど、生徒の自主性を尊重した教育が行わ れた。
全国の大学で学園紛争が激化する中、東京の真ん中にある新宿高はその影響を強く受けた。一方で67年度から、受験戦争解消を名目に都立高の学校群制度(81年度で廃止)が導入され、中学生は進学する高校を自由に選択できなくなった。
これを機に東大などへの進学者は減少した。それでも「生徒が伸び伸びとしている印象は今も変わりません」と、卒業生が運営する新宿高の「朝陽同窓会」事 務局長、西出紀久さん(71)=62年度卒。西出さんは長女も87年、同校に入学。生き生きとした生徒たちの姿は「自分の在学当時のままだった」と話す。
90年代以降は「都立高を復活させよう」との流れが強まった。新宿高は2003年、進学重視型単位制高校となり、07年には都の「進学指導特別推進校」 に指定。土曜日授業や補習、補講の実施など、大学受験を重視した指導を強化している。=次回は10日に掲載します
http://mainichi.jp/articles/20160603/ddl/k13/100/012000c
人物略歴
さかもと・りゅういち
1952年東京都生まれ。東京芸術大を経て78年「千のナイフ」でソロデビュー。同年「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO)結成。映画「戦場 のメリークリスマス」で英国アカデミー賞、「ラストエンペラー」でアカデミーオリジナル音楽作曲賞、グラミー賞などを受賞。環境や平和問題への言及も多 く、森林保全団体の創設なども行う。2014年7月、中咽頭(いんとう)がんを公表したが、治療と療養を経て15年、映画「母と暮せば」と「レヴェナン ト:蘇えりし者」の音楽制作で復帰を果たした。
榊原さん 熊さん
情報ありがとー (^_^;)