「坂本龍一」の検索結果

YMOロンドン集結

news_20180622123035-thumb-645xauto-139647

テクノポップバンド「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」のメンバーがイギリス・ロンドンに集まり、メンバーそれぞれがツイッターに写真を投稿した。

坂本龍一さん、 細野晴臣さん、高橋幸宏さで違う写真を投稿している。

メンバーはそれぞれ、2018年6月22日の早朝に写真を投稿した。

坂本さん、細野さんは写真のみで、高橋さんが「今夜、Londonにて。」とのコメントを添えた。

投稿された写真はいずれもテーブルを囲んで撮られたもので、高橋さんのみカラーで投稿している。

坂本さんが20日に、細野さんが23日にロンドンにあるバービカン・センターでコンサートを開催。

2人がロンドンにいるところに高橋さんが合流した。

YMOは1978年に3人で結成され、1979年発表のアルバム「SOLID STATE SURVIVOR」が100万枚を超えるセールスを記録。

1983年に解散するも、その後何度か再結成している。

彼らは79年と80年のワールドツアーと、08年にもロンドンで公演を行っている。

この投稿に対しファンは、

「伝説の皆さん元気そうで何よりです」
「今、このスリーショットを見られるしあわせ」
「感動して泣けてきました」
「朝から震える写真をありがとうございます!」

と喜びの声を寄せていた。

また、YMOとしての演奏が13年の「NO NUKES 2013」以来なく、今年が結成40周年の節目であることから、活動に期待する声も寄せられた。

「新作聞きたいです」
「3人でなんかやろうよ。という話にはなってくれぬのか」
「この状況に何かを期待してしまう」

塩崎恭久氏 衆院在職25年表彰

20080201162529_ECUE

坂本龍一         塩崎恭久

塩崎 恭久(しおざき やすひさ、1950年(昭和25年)11月7日 – )は、日本の政治家。

愛媛県松山市生まれ。東京都立新宿高校卒業後、東京大学に入学する。1975年、東京大学教養学部教養学科アメリカ科を卒業し、日本銀行へ入行。1982年にハーバード大学大学院(ケネディスクール)を修了し、公共経営修士号を取得した。

自由民主党所属の衆議院議員(8期)。厚生労働大臣(17・18代)、参議院議員(1期)、衆議院法務委員長、外務副大臣(第3次小泉改造内閣)、内閣官房長官(第73代)、拉致問題担当大臣(初代)等を歴任。

詳細はここをクリック

理想の「音」は雨の音

WS000001

音楽家、坂本龍一の言葉の至るところからは、「聴いたことのない音」を聴きたい、つくりだしたいと願った、新宿高校に通っていたころそのままのパッションが噴き出している。

60代も半ばに差しかかった坂本は、なぜ長年にわたってそのような姿勢を貫き、実際に「未知の音」を世に届け続けることができたのだろうか。

それは「根源的な問い」を忘れず、自らが「知らない」世界へと積極的に身と心を開いてきたからなのであろう。

どこまでも瑞々しく、エモーショナルな彼の哲学は、見えない明日へ次の一歩を踏み出そうとするぼくたちの心を、優しく、激しく、奮い立たせてくれる。

WIRED

詳細はここをクリック

毎日新聞「母校を訪ねる」シリーズ

WS000000元新宿高教師・佐藤喜一さん

新宿高校1948年度卒

 東京都立新宿高校の長い歴史の中には、多くの名物教師が存在した。新制高校第1期の卒業生で、国語教師として24年間母校の教壇に立った佐藤喜一さん (86)=1948年度卒=もその一人。「新宿高のレジェンド」が、30年にわたる母校の日々を語った。

 生まれは東京都の北区十条。池袋にあった豊島師範付属小に通い、同級生が多く行ったので新宿高の前身の旧制府立六中に進学を決めました。入学した年は 1943(昭和18)年4月の戦中期。入学式翌日は明治神宮に参拝。朝礼の時はまず皇居遥拝(ようはい)、続いて新宿御苑に最敬礼でした。

 勉強もしましたが、軍事訓練が多かった。夏休みは陸軍の兵営で行軍などの訓練。中学2年の時には勤労動員で軍需工場へ行きました。給料は月給30円。戦後に支払われたけど、物価が急に上がり、焼け石に水でした。

 終戦後、学校は一変しました。それまで「お国のために」というのに、急に「民主主義とは」なんて。不信感を持ちました。授業はあってもテキストがない。英語の木村武雄先生は小泉八雲の怪談をガリ版刷りにしてオリジナルのテキストを作ってくれました。

 戦後、部活動も始まりました。鉄道が好きだったので、仲間と鉄道研究会を作り、部品を集めて「Oゲージ」の鉄道模型を作り文化祭で走らせました。

 学校近 くの伊勢丹本店が接収され進駐軍の宿舎でした。部活で帰りが遅くなった夕暮れ、校門を出ようとすると派手な化粧をして米軍兵士を相手とする女性がたむろし ている。ちらりと横目で見ながら「負けたんだ」とつぶやいたものです。

 49年、旧制中学から新制高校に変わった都立第六高(50年に新宿高に校名変更)の第1期生として卒業し、鉄道のエンジニアになりたくて、東京都立大工 学部に入学。その後、教養課程で学んだ文学の方に興味を持って、国文学専攻で卒業、さらに修士課程まで進み、国語教師になりました。

 都立富士高を経て青山高で教えていたころ、新宿の5代目校長の沢登哲一先生が、「母校に帰って来いよ」と声をかけてくださった。そして、先生が退職され た63年春から母校で働くようになったんです。沢登校長は名物校長の誉れ高き方。豪放磊落(らいらく)でお酒好き、教員にも心酔者が多かった。

 先生方もユニークな方が多かったです。いろいろな教員がいる中でも一致していたのは、「私たちの職場は私たちできちんと運営していく」というところで す。当時教頭は教員の中から互選していました。校務分掌も、一切教師が決めました。そういう自主的な校務運営が、自主性を尊重する新宿高の校風を育てたよ うに私は思います。

 教師としての私を支えてくれた言葉があります。「学ぶとはこころにまことを刻むこと。教えるとはともに未来を語ること」。フランスの詩人ルイ・アラゴン の言葉です。必ずしも、この通りに実践したとも思っていませんが、一人一人の可能性の灯を、いかにしたら美しく燃焼させることができるか、考えながら生き てきたつもりです。

 新宿高の魅力は、御苑のみどりから知らず知らずのうちに薫陶を受けているといったところでしょうか。旧制六中校歌の一節に「木々の翠(みどり)を見やり つつ 学ぶ心の清きかな」とあります。これがとってもいい。都心の真ん中にありながら、御苑のみどりを感じながら、朝日のごとくさわやかな生徒たちと過ご せたことは、実にありがたい人生だったと思っています。

記憶に残る「名物先生」 ユニークな授業で慕われ

 新宿高校には多くの生徒が記憶にとどめる「名物先生」が多数在籍した。兼職が認められた時代は進学塾講師を兼任したり、専門性を磨いて大学の教授に転職した先生も。10年、20年と長期在籍する先生も数多くいた。

 1970年から20年間在籍した音楽担当教諭の野村満男さん(81)は、日本のチェンバロ製作・研究の第一人者としての顔も持つ。「基本はバロック音楽 にあり」との思いから、関わりの深いチェンバロを使った指導を思い立ち、試行錯誤の末、手作りで完成させたのがきっかけ。生徒に実際にチェンバロを製作さ せてバッハを演奏させ、評判を呼んだ。坂本龍一さんの教育実習の際の指導教官も務めるなど、多くの音楽家を育てた。

 50年から22年間在籍した英語担当の澤正雄さん(故人)といえば、名物「くるくるとん」。教え子の斎藤成(はかる)さん(61)=72年度卒=による と、ペンをくるくる回して出席簿に落とし、そこに名前のある生徒から当てて授業を始めたことから、この異名がついた。

 毎回、当てられた生徒の悲鳴や当たらなかった生徒の安堵(あんど)の声が教室に響いたという。慕う生徒も多く、退職後、卒業生有志が澤さんにまつわる本 を2冊自主出版した。斎藤さんは「生徒を優しく厳しく見つめてくださり、感謝している」と振り返る。=次回は最終回。26日に、卒業生の読者からいただい た「私の思い出」を掲載します


卒業生「私の思い出」募集

 都立新宿高校(旧府立六中含む)の卒業生のみなさんから「私の思い出」を募集します。300字程度で学校生活や恩師、友人の思い出、またその後の人生に 与えた影響などをお書きください。卒業年度、氏名、年齢、職業、住所、電話番号、あればメールアドレスを明記のうえ、〒100−8051、毎日新聞地方部 首都圏版「母校」係(住所不要)へ。メールの場合はshuto@mainichi.co.jp.へ。いただいた「思い出」は毎日新聞やニュースサイトで紹 介することがあります。新聞掲載の場合は記念品を差し上げます。


さとう・きいち

 1930年東京生まれ。東京都立大学大学院修士課程(近代日本文学専攻)修了。新宿高での教え子には芥川賞作家の絲山秋子さんもいる。退職後は駿台予備 学校講師などを務め、現在は鉄道エッセイストとして活躍。著書に「汽笛のけむり 今いずこ」(第25回交通図書賞受賞)など。

毎日新聞「母校を訪ねる」シリーズ

WS000000厚生労働相・塩崎恭久さん

新宿高校1969年度卒

  全国の高校で学生運動の嵐が吹き荒れた1969年、東京都立新宿高校も、その影響を強く受けた。生徒会長も務めた衆院議員で厚生労働相の塩崎恭久さん (65)=同年度卒=は、自由な教育を求めて学校側と対峙(たいじ)した。「自分の問題意識に、正面から全力で向かい合っていた」という塩崎さんに、“時 代の風”の真っただ中で過ごした高校生活を語ってもらった。

 部活は社会科学研究会、通称「社研」に所属しました。当時、学校の校庭の前に簡易宿泊所があり、時に犯罪者が逃げ込んだりする社会の縮図のような場所でした。四谷警察署へ実態を聞きに行き、調べた内容を模造紙に書いて文化祭で発表しました。

  一つ上の姉が交換留学プログラムで米国へ留学したのに感化され、「自分も」と2年の2学期から1年間、サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ近く の高校に留学しました。制服もなく生徒は車を運転して学校に通う。何より、自分でやりたい授業を選べるというのがカルチャーショックでした。

続きを読む

毎日新聞「母校を訪ねる」シリーズ

WS000000版画家・百瀬晴海さん

新宿高校2001年度卒

 優しい色合いの動植物や街の風景を中心にした作品で、若手版画家として注目される百瀬晴海さん(33)=2001年度卒。

 美術室に入り浸って油絵の具のにおいに囲まれ、「モネの画集が恋人だった」という、アート系女子の青春の日々を聞いた。

 彫刻家の父の活動拠点である米国ニューヨークで生まれ、小学2年から東京都世田谷区の小学校に転校しました。

 クラスではなじめずちょっと浮いていました。

 でも、絵を描いていると同級生が私の机まで見に来たりして、一目置いてもらえるようになりました。

 描くことは自分にとってコミュニケーションの手段でした。

 小6の時に描いた経堂の天祖神社の写生画が、区の特選に選ばれて神社に奉納されたことも自信に つながり、画家を目指すようになりました。

 新宿高校は、近くに美大受験の予備校と画材専門店「世界堂」もあり、自分に必要なものがぎゅっと詰まっていたの で、選びました。

 入学後は迷い無く美術部に入部。「自分は美術室の主だ」と言うくらい、放課後は入り浸っていました。

続きを読む

毎日新聞「母校を訪ねる」シリーズ

平成28年6月から毎日新聞に「母校をたずねるー新宿高校」が、毎週一度、掲載されます。

記事には毎回卒業生が一人取り上げられ、在校中のエピソードや卒業後の活躍のようすなどを語ります。

以下に記事の一覧をお知らせします。

卒業生の欄をクリックして記事本文をご覧ください。

 

連載回 毎日新聞紙面掲載日 卒業生(卒業回)
平成28年6月 3日 坂本龍一(22)
平成28年6月10日 柴田 和子(9)
平成28年6月17日

 

8回くらい 連載される予定です (^_^;)

 

毎日新聞「母校を訪ねる」シリーズ

WS0000001969年度卒

 「母校をたずねる」は今月から、東京都立新宿高校(新宿区内藤町)編を連載します。

日本を代表する大繁華街の一角にある同校は、政治や文化など幅広い分 野で時代のリーダーを輩出してきました。

初回は、平和や環境問題などへの幅広い発言でも知られる音楽家、坂本龍一さん(64)=1969年度卒=が、その 高校時代を語ります。

——————————————

 小学2年で引っ越した世田谷区(東京都)では、当時、「新宿高に行く」というのはある種のステータス。当時の世田谷は田んぼに蛇がいたり、ツクシが生えていたりする自然あふれる場所。そんな田舎の子にとって、新宿という大都会に通うことは大きな変化でした。

  入学後まずしたのは、事前に調べた新宿のジャズ喫茶約30軒を、1カ月かけて全部まわったこと。うち2軒を気に入りました。人生で一番映画を見た時期で もあります。印象的なのはジャン・リュック・ゴダールの「気狂いピエロ」。人生で一番好きな映画です。音楽の勉強もしました。当時珍しかった現代音楽を聴 かせてくれる催しに、1人で足を運びました。

 印象に残る先生は、現代国語の前中昭先生です。最初の授業で衝撃 を受けました。「俺はお前たちに興味がない」なんて言って。びっくりして、でも面白いと 思って、授業が終わって職員室に追いかけていきました。そうしたら向こうも面白がってくれたのか、以来、友達みたいな関係になりました。彼が病気の時、コ ンサートで「マエナカにささげる」と言って演奏したこともあります。亡くなってしまいましたが、彼が当時話した言葉の意味が今になってわかったり、いまだ に大きな存在です。

 学生運動の影響も受けました。1年生の4月、登校したら3年生が頭から血を流している。聞くと、機動隊にやられて帰ってきたという。ショックを受けて「これは、やらなきゃだめだ」と、全国的なデモに何度も足を運びました。

  3年生だった1969年11月5日、定期テストや制服の廃止などを求めて校長室を占拠しました。クラスメートの塩崎恭久くん(厚生労働相)や馬場憲治く ん(マルチクリエーター)も一緒です。当日は朝からやる約束だったんですが、僕は遅刻した。母親が起こしてくれなくて……。まあ、そのくらい甘ちゃんだっ たんですよ。いろいろな先生と話し合いました。皆さん真摯(しんし)に対応してくれ、結局、全ての要求が通りました。

 新宿高らしさ、といって一番に思うのは「バンカラ」ということ。下駄をはいてしょうゆで煮しめたような制帽をかぶり、腰に手ぬぐいをつけた先輩など、戦前の旧制高校の雰囲気が多分にあった。

 日比谷高や戸山高はお坊ちゃん的な感じだけど、新宿はバンカラ。でも優秀な生徒がたくさんいて、雑多さと知性が同居している学校でした。音楽はもちろん、考え方、人とのつきあい方、映画。今につながる全てが新宿高で培われました。

 60年代の終わりの、今でいうサブカルチャーが成熟してきた時代。その中心が新宿だった。多様性とか新しい価値観のるつぼのような場所に、ただでさえ多感な10代後半の時期に居ることができて、ラッキーでした。

  今の若い人と話すと、すばらしいと思います。一見主張しないような子でも、話してみると、とてもしっかりしていて、大人をよく見ている。ただ、今の日本 はとても心配な状況です。脱原発や安保法制反対を訴えるのは、子どもたちが将来、よりひどい状況にさらされるとしたら、それは今の大人の責任だと思うか ら。言うべきことは言わなければならないと思っています。

 

生徒伸び伸び 自主性尊重の歴史

 「全員指導者たれ」。新宿高で今も引き継がれる、阿部宗孝・初代校長が打ち出した校是だ。1922(大正11)年、東京府立六中(旧制)として開校した同校は、時代の影響を受けて変化しつつも、その精神を受け継いできた。

  戦中には軍国主義の波にのみ込まれたが、戦後はいち早く教員の間に教育民主化への機運が高まった。60年代には毎年100人前後が東京大に進学する全国 屈指の進学校となったが、当時の教員が「生徒は伸び伸びと遊び、いつ勉強しているのかと不思議だった」と振り返るほど、生徒の自主性を尊重した教育が行わ れた。

 全国の大学で学園紛争が激化する中、東京の真ん中にある新宿高はその影響を強く受けた。一方で67年度から、受験戦争解消を名目に都立高の学校群制度(81年度で廃止)が導入され、中学生は進学する高校を自由に選択できなくなった。

  これを機に東大などへの進学者は減少した。それでも「生徒が伸び伸びとしている印象は今も変わりません」と、卒業生が運営する新宿高の「朝陽同窓会」事 務局長、西出紀久さん(71)=62年度卒。西出さんは長女も87年、同校に入学。生き生きとした生徒たちの姿は「自分の在学当時のままだった」と話す。

 90年代以降は「都立高を復活させよう」との流れが強まった。新宿高は2003年、進学重視型単位制高校となり、07年には都の「進学指導特別推進校」 に指定。土曜日授業や補習、補講の実施など、大学受験を重視した指導を強化している。=次回は10日に掲載します

http://mainichi.jp/articles/20160603/ddl/k13/100/012000c

 

人物略歴

さかもと・りゅういち

  1952年東京都生まれ。東京芸術大を経て78年「千のナイフ」でソロデビュー。同年「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO)結成。映画「戦場 のメリークリスマス」で英国アカデミー賞、「ラストエンペラー」でアカデミーオリジナル音楽作曲賞、グラミー賞などを受賞。環境や平和問題への言及も多 く、森林保全団体の創設なども行う。2014年7月、中咽頭(いんとう)がんを公表したが、治療と療養を経て15年、映画「母と暮せば」と「レヴェナン ト:蘇えりし者」の音楽制作で復帰を果たした。

 

榊原さん 熊さん

情報ありがとー (^_^;)

 

愛と憎しみの新宿

41DcTjuKwRLTKY201009240247  1960~70年代にアングラ文化や街頭デモで底知れぬエネルギーを感じさせた新宿。

80年代以降は地上げや再開発で風景も集う人々も変わったと 語られ た。

だがいま、その街が再び新しい顔を見せようとしていると、批評家の平井玄さん(62)はいう。

自らの半生と新宿の近代史を重ねて『愛と憎しみの新宿』 (ちくま新書)を著した平井さんに聞いた。

「私にとって新宿は『ファウスト』の遍歴物語の舞台。新宿にうごめいていた芝居や音楽、政治運動の担い手や飲み屋のオヤジ、アル中の職人、そうした『悪魔』たちに導かれるうちに、自分自身もデーモンになっていった」

新宿2丁目のクリーニング店に生まれ、現在も新宿に暮らす平井さんは、新宿高校では一学年上の坂本龍一らと高校全共闘を結成、ジャズ喫茶にもぐりこんでは山下洋輔や阿部薫の演奏を聴いた。

そんな平井さんにとって、バブル期を頂点とする80年代の新宿は「栄えてはいたが、死んだ街」だった。「巨大になりすぎて、何でも売っているけど、新宿にしかないものは何もなくなった」。平井さんは一時、新宿を離れる。

商業的な若者文化の先端は渋谷へ、カネのない若者が独自文化を生みだすパワーは高円寺などへ流出した。だが不況下の地価下落で流れが再び変わった、と平井さんはみる。若者が徐々に新宿周辺に戻り始めたというのだ。

たとえばフリーターたちの労働運動の拠点が新宿に置かれている。「フリーターは交通費がかかるところには住めない。どこへでも歩いていけるところに、集まって暮らすしかない。そういう人々の多く住むエリアの一つとして、新宿が再び面白い文化を生み出す可能性はある」

 2年前のメーデーでは、フリーター全般労組が中心になり、約40年ぶりに新宿一周デモが実現。平井さんも参加した。いま新宿には、アナーキズムのグッズを扱うショップやビート詩人の朗読会が開かれるカフェなど、「新宿的」な店が生まれているという。

「ふたをされ暗渠(あんきょ)になっていただけで、流れそのものは途絶えていなかった。街の骨格はそう変わっていない。私の本を読んでいまの新宿を歩けば、歴史が二重写しで浮かび上がってくるはずだ」

若い読者からの反応も多いという。かつて10代の平井少年を遍歴に誘った悪魔メフィストフェレスの役を、平井さん自身が担おうとしている。

—————————–

一九六〇~七〇年代の新宿。そこは伝説的なジャズ・バーやシネマテークなどが集まる巨大な文化工場だった。風月堂、紀伊國屋書店、文壇バー、ATG新宿文 化をはじめ、異形な場所に奇怪な人間たちがひしめきあって、戦後日本文化の闇鍋を形作った。一方で、歌舞伎町や要通り、旭町や二丁目などなど、喰い物や SEXを入力するとたちまち爆発的に膨張する欲望の街でもあった。新宿二丁目の赤線地帯で生まれ育った思想家が、濁愛、陰謀、宇宙の文学や悪魔の建築、阿 鼻叫喚に劣情有理、ありとあらゆる運動を包みこんだ新宿の奥座敷を七転八倒して活写する異色の地下文化史。