▲イラン人作家、シリン・ネザマフィ
日本語を母国語としない人が
日本語で小説を書いて芥川賞候補だそうです
なんだかうれしいような
ショッキングのような (^_^;)
日本語で小説を執筆し、2度にわたり芥川賞候補に選出された。
彼女が紡ぐ物語には、世界の不条理と対峙し、迷い苦しみながら、儚くもどこかへと流されてゆく個人の姿がしきりに描かれる。
ネザマフィがあえて母国語を用いずに、この普遍的な題材に挑戦し続けるのはなぜなのだろうか?
「この作者は、なぜ日本語で小説を書いたのだろう?」
彼女の物語を読んだ読者の多くは、そんな疑問を抱くだろう。
あるいは本の奥付にある彼女の略歴を一読して、「本当は日本人なのでは?」と疑う読者すらいるかもしれない。
それも無理はない。小説家、シリン・ネザマフィは、言葉の壁など微塵も感じさせないスマートな文体で日本語を操り、物語を構築して見せる“外国人作家”なのだから。
2009年に発表した代表作『白い紙』は、第198回文學界新人賞を受賞。
その後も精力的に創作を続け、2度にわたって芥川賞候補にも選出された。
母国語はペルシャ語、日本語で小説を執筆
シリン・ネザマフィの母国語は日本語ではない。
彼女の出生地はイラン・テヘラン。家族や友人とはペルシャ語で会話をして育った。
純粋なイラン人である彼女は、生まれてから19歳で来日するまでのあいだ、本格的に日本語を学んだことも、日本の土を踏んだこともなかったという。
そんな彼女が日本の文壇を揺るがすほどに精緻な言語感覚と独自の文体を獲得し、日本語で創作をするに至ったのはなぜなのだろう。
「For ONEs」×『WIRED』日本版でお届けする連載第2回は彼女の「言葉」と「アイデンティティ」を探る。
「自分らしさ」を追求する「For ONEs」とは、“世界は、ひとりの複数形でできている”というコンセプトで多様性社会において、画一的なサーヴィスに留まらず、個人・個性をエンカレッジする取り組みの総称だ。
では、日本語とペルシャ語という言語を使い分ける彼女の「個性」を生かした「自分らしい表現」とはどのようなものか。
現在ドバイで暮らす彼女に話を訊いた。
テロップで感情を学ぶ
「わたしの小説は、ほかの日本人作家のみなさんとはまったく比べ物にならないほど単純な言葉で書かれていると自覚しています。どれだけ日本語を勉強しても、日本人のように小説を書くことは、わたしにはできないのです。ですから、日本語で小説を書いているからといって、言葉の壁を超えられたとは思っていません。
だけれど、19歳で日本に留学してから本格的に日本語の勉強を始めて、非常に効果的だったと自覚している学習法はたしかにあります。それは、テレビのバラエティ番組を見ることです。これは日本語に限らず、すべての言語を学習する際にいえることかもしれませんが、学校で配布される教科書には、例文は載っていても、そのフレーズを使う状況や相手の感情までは書かれていませんよね。
その点、日本のバラエティ番組には、出演者の発言を感情や状況に応じて多彩なフォントで表現する“テロップ”の文化があります。テロップとあわせバラエティ番組を見ていると、日本の一般常識や、日本人同士が無意識に共有している共通認識を知ることができるので、実践的なコミュニケーションを学ぶうえではとても役に立ちました」
さらに話を聞いてみると、彼女は日本のバラエティ番組やお笑い芸人がとても好きだという。ネザマフィの口からは、意外な番組名が次々と出てくる。
「バラエティ番組のなかでも、特に日本語の勉強に効果的だったのは、明石家さんまさんのトーク番組です。さんまさんの番組では、ひとつのトークテーマについて複数の出演者が各々の意見を通わせるので、会話にインタラクションがある。この状況は日常会話に非常に近いので、とても勉強になりました。
司会者にはいろいろなタイプがあり、その空間をドミネイトして、自身を起点にトークを回すような方もいます。そうした場合、さんまさんの番組とは違って出演者同士のインタラクションはそれほどありません。日本語を勉強するうえでは、ひとつの話題をさまざまな人に振る番組が効果的だったと思います」
日本を教えてくれたひとりの少女
19歳で日本に渡り、翌年神戸大学工学部へと進学したネザマフィ。彼女が日本へ渡るきっかけをつくったのは、母国イランで出会ったひとりの少女だった。
「わたしが日本に興味をもつきっかけをつくってくれたのは、日本の学校から編入してきた中学時代のイラン人の友人でした。小学校まで日本で育った彼女は、わたしたちイラン人の女学生に比べると仕草や振る舞いがとてもおしとやかで可愛かったのです。
イランの学校は、大学に上がるまで男女が別学なので、男子の目を気にしないで木に登ったりするようなおてんばな女子が多いんですよ。そんななかで、ひとりだけ“日本的”な静けさをたたえていた彼女は異質であり、とても魅力的でした」
日本帰りの友人と親交を深めるうちに、祭りや着物といったこの国独自の文化を知ったというネザマフィ。心のなかで少しずつ膨らんでゆく日本への憧れの思いは、彼女にひとつの決心をさせる。
「インターネットが普及していなかった当時、日本に関する情報といえば、彼女が教えてくれるものがほとんどでした。いまも当時も、イラン人が抱く日本へのイメージは安全性、信頼性と努力が合わさったとてもよいものです。
日本という国が、戦後に驚異的な速度でテクノロジーを発展させて復興を果たしたことは、わたしも子どものころから知っていました。そのようなもともと抱いていた日本へのイメージと、友人から聞く面白い話がミックスされたことで、木の枝先に花が咲くように、わたしの心のなかにある日本のイメージが彩られていったのです。
そして子どものころからの憧れもあり、大学進学の時期になると、自然な流れで日本への留学を考え始めました。いま考えると、当時のわたしは、日本についても日本語についても、簡単なあいさつと漢字しか知らなかったんですけどね(笑)」
日本人でも、完全な外国人でもない存在を描く
神戸大学工学部へ進学したネザマフィが小説を書き始めたきっかけは、日本語の授業中に読んだ短い物語だった。「このくらいの短さならわたしにも書けるかな」。そんな軽い気持ちで、研究室での日常をデフォルメしたフィクションを書きためていく。
「わたしが子どものころはインターネットやスマホ、PCゲームなんてありませんでしたから、遊びといえばもっぱら本を読むこと。その延長で、ペルシャ語で短い日記や作文を書いたりもしていました。もともと文章を書くのが好きだったこともあり、日本に来てからもそれほど気負うことなく、日本語で物語を書き始めたんです。
そんなある日、同じ大学の友人がわたしの書いた短い小説をとても面白がってくれて、それに絵をつけて漫画にしてくれました。この漫画は、いつも大学のことで相談をしていた先生の目に留まり、ちょっとした話題になって、神戸大学の工学部同窓会の機関誌で連載にもなったんですよ」
日本語で物語を書くことの面白さを知った彼女は創作に没頭し、ついに2007年、中編小説『サラム』で留学生文学賞を受賞する。この作品の主人公は、日本の大学に進学した外国人留学生の女性だ。彼女は、弁護士の「田中先生」に雇われ、不法移民の少女・レイラの心を、通訳の立場で代弁する。
『サラム』を創作した背景には、神戸大学在学中、通訳のアルバイトをしていたというネザマフィ自身の実体験があるという。日本人と留学生、そして招かれざる移民を描くことで、彼女は何を伝えようとしたのだろうか?
「『サラム』を執筆した当時、わたしが考えていたのは、“日本社会に入りきれない外国人の姿を描きたい”ということでした。わたしや『サラム』の主人公のように通訳の仕事をしている外国人は、日本語を習得しているという点で、すでに“完全な外国人”ではありません。それはいわば、日本人と“完全な外国人”の中間にいる存在です。
日本人にも外国人にもない視点から見た“日本の実像”を描こうとしたのが、この作品でした」
『サラム』に登場する不法難民の少女・レイラは、ネザマフィが言うところの“完全な外国人”に分類される。少女は日本語を話すことができず、日本人弁護士との意思の疎通は、通訳を介さないことには困難だ。
作中では、国際情勢や戦争など、個人の力が及ばない不条理によってレイラの運命が決定づけられてゆく様が痛々しいほどに鋭利な描写で綴られる。そんな「不条理」こそが、ネザマフィの創作の原点なのかもしれない。
「中東では戦争、内戦、革命、移民、難民などは残念ながらおなじみのできごとであり、どの年齢や世代の人であれ、自分の人生のどこかのタイミングでそれらの何かを体験しています。自分の意志よりもはるかに大きな力によって人生の軌道が変わってしまった不条理なことを経験しています。
だからこそ、『白い紙』という作品でも、戦争によって未来を決定されてしまうイランの子どもの話を書いたのです」
言語がもつ小説的機能
「人生の不平等や不条理を描きたい」
そんな普遍的なテーマを追い続けるネザマフィは、今も一般企業の正社員としてドバイで働きながら、日本語での創作活動を続けている。母国のイランでも、日本でもない、第三の国で暮らす彼女が、それでも日本語で小説を書き続けるのは、なぜなのだろうか。
「作家としてインタビューを受けると、よく聞かれるのが『日本語で小説を書く際には、母国語で思考してから日本語に置き換えて文章にしているのですか?』という質問です。でも、これはわたしからすればとても不思議な問い。
わたしは頭に浮かぶ“映像”を言葉に変換して小説にしているだけなので、そもそもアイデアを練っている時点では母国語で思考しているわけでも、日本語で思考しているわけでもないのです。
『白い紙』と『サラム』を日本語で書いたのは、これらが日本の読者に読んでもらうことを前提とした物語だからです。先ほど、バラエティ番組を見て日本人の一般常識や共通認識を学んだと話しましたが、このような“前提”は小説を書くときにも、現れてきます。
日本人読者を想定して日本語で書く物語と、イラン人読者を想定してペルシャ語で書く物語は、同じ題材でも、ニュアンスが異なる物語になると思います。それは、このふたつの国に暮らす読者にとって、コミュニケーションをとる際に前提とする一般常識や共通認識が若干違うためです。
映像を起点としてストーリを書く以上、その映像に出てくる登場人物や食べ物、その服装や場所、さらにその映像を見るであろう観客があっての“物語”になります。日本という場所や日本人に関わりをもつ物語を書こうとすれば、それを紡ぐ言語が日本語になるのは自然なことだと思います」
言葉の壁の、その先へ
「For ONEs」の取り組みのひとつである、翻訳のサーヴィスは、あらゆる時間、あらゆる場所、あらゆる人に言葉を届けるのに役に立つ。たとえ完全に言葉を話せなくとも、人は互いの「共有知」を拠り所にし、それをバネとすることで、多くを語らずとも相手の言わんとしていることを察し合うことができる。
文章であろうと音声であろうと、言葉で何かを伝えようとするときに何よりも重要なのは、文法の知識でも語彙の数でもなく、この「共有知」の有無なのかもしれない。
“完全な外国人”と“日本人”のあわいに立つネザマフィ。その「個性」を活かして自分らしく生きる彼女は、これからも「言葉の壁」の向こう側で、ありのままの世界を描き続けるのだろう。