全米騒然、2人のセレブの自殺が語る
「全てを持っている人生が幸せだとは限らない」
6月上旬、ニューヨークに住む2人の大スターが続けて自殺した。
1人は6月5日に高級住宅街パーク・アベニューの自宅で亡くなったデザイナーのケイト・スペード、もう1人はその3日後の6月8日にロケ先のフランス、アルザスのホテルで死亡したことが報道されたセレブリティ・シェフにして人気テレビ番組ホスト、アンソニー・ボーデイン。
2人とも才能に恵まれ、それぞれの分野で世界規模の大成功を収めた人気者だ。
富と賞賛を手にし、華やかな生活を送り、世界中のファンから愛されていた。
スペードは55歳、ボーデインは61歳とまだ若く、いずれも10代の娘と老親を残しての死であった。
スペードの遺族は、この数年彼女が夫と別居し、長いこと鬱だったことを発表した。
ボーデインは、薬物やアルコール乱用の過去を以前からオープンにしていたが、それが今回の自殺と関係があるかはまだはっきりしていない。
2人の死、特にボーデインのニュース以降、アメリカのメディアやSNSでは戸惑いや分析を試みるコメントが無数に行き交っている。
「多くの人に憧れられるような成功者が、一体何につまずき、なぜこのような道を選ばなくてはならなかったのか?」と。
スペードの死は日本でも報道されているようだが、ボーデインについては彼の独特なスター性と活躍の内容が日本ではあまり伝わってないようだ。
アンソニー・ボーデインを一言で説明するのは難しい。彼は、しばしば「世界で最も影響力のあるシェフ」と呼ばれてきた。それは事実なのだが、彼の才能は、それをやすやすと超えた幅広いものだった。20年近く、彼の著作やテレビ番組を熱心にフォローしてきた筆者から見ると、彼の特筆すべき才能はむしろストーリーテラーとしての力量、ライターとしてのスタイル、見知らぬ世界で出会った人々と交流する人間的な魅力だったのではないかと感じている。
日本でたとえるなら、開高健、沢木耕太郎、椎名誠のような旅する作家でもあった。ジャック・ロンドンのようにハードボイルドで冒険心があり、同時に繊細な詩人の面も備えている。カート・コベイン、ボブ・ディラン、ミック・ジャガーを思わせるカリスマ性がある刺青だらけの「ロックスター」でもあり、弱者のために立ち上がる「いいヤツ」で、かつセクシーであるところは、ジョージ・クルーニーにも通じる。ユーモアとウィットがあり、語り口は率直で正直。反骨精神と同時に、温かさ、謙虚さもある。
インスタグラムのフォロワーは300万人、Twitterは750万人。#anthonybourdain というハッシュタグでインスタグラム検索をすると約25万 のポストが出てくる。世界中のファンに加え、名だたる一流シェフたちが彼の死を悼んでいる。スペインの著名レストラン・エル・ブリのフェラン・アドリア、アルサックのホアン・マリ・アルサック、親友で遺体の発見者でもあるル・ベルナルダンのエリック・リペール、日本の森本正治などが、それぞれにボーデインとの思い出を語り、写真を載せている。
オバマ大統領も「トニーが教えてくれたもの」
オバマ前大統領も、2016年にベトナムのヌードルショップでボーデインと一緒に麺をすすったときの写真をすぐにTwitter に載せ、こんなメッセージをつけた。
「トニーは、私たちに食について教えてくれた。でも、もっと重要なことも。それは、食が人と人とをつなぐそのパワーについてだ。私たちが未知のものに対して抱く恐れを少し軽くしてくれるように」
10冊以上の著作の多くがベストセラーだが、彼の死後にはそれらが再び爆発的に売れ始め、訃報の翌日にはアマゾンで売れ筋上位10位までの中に、ボーデインの著書が6冊入っていると報道された。
例えば、彼が残した言葉で私が気に入っているものの一つを紹介すると、
何か訴えたいことが自分にあるとすれば、「動け」ということにつきる。なるべく遠くまで、なるべくたくさん動けと言いたい。海の向こうへ、あるいは単に川の向こうに渡ってみるだけでも良い。他人の立場になってみること、少なくとも他人の食べているものを食べてみるということ。それは、やればやるほど全ての人にとってプラスなことだ。心をオープンにし、ソファーから腰を上げ、動くのだ。
“If I’m an advocate for anything, it’s to move. As far as you can, as much as you can. Across the ocean, or simply across the river. The extent to which you can walk in someone else’s shoes or at least eat their food, it’s a plus for everybody. Open your mind, get up off the couch, move.”
“I feel like I’ve lost my friend”
2001年の米同時多発テロ後に消防署の前が花や手紙でいっぱいになった時のように、またスティーヴ・ジョブズが2011年に亡くなった時にアップルの店舗がそうだったように、このフレンチレストランは、今や「ボーデイン神社」と化している。
店の前には多くの花束が供えられ、窓や壁は手書きのメッセージ、彼の写真などで埋められている。
ボーデインへのメッセージには、彼を慕う気持ちが溢れていた。
皮肉なことに、この店は2017年に倒産し、今まさに解体作業中だ。
ボーデインが何年もの間、汗をかきながらステーキを焼き、フレンチ・オニオン・スープを作っていた厨房が叩き壊されようとしている。
もし今まだこの店がやっていたら、世界中から彼のファンがつめかけ、予約のとれない店になっていただろう。
SNSや報道を見ていても、私の身の周りでも、「I feel like I’ve lost my friend(まるで友達をなくしたような気がする)」と語る人がとても多かった。
私自身も含めて。私は近所にある和食レストランでお寿司を食べているボーデインを一度だけ見たことがあるが、話をしたことはない。
でも、彼と何かを共有しているような、そんな気がするのだ。
Les Halles の壁に貼られた多くのメッセージもまた、友人に向けられたもののような、パーソナルで感謝と愛と尊敬に満ちたものばかりで、読んでいるだけで涙が出てくる。
どうして?あなたは愛されていたのに。今だって愛されているのに。
トニー、私が食産業で働いているのは、あなたのおかげです。私がニューヨークに住んでいること自体、あなたのおかげのような気がするときすらあります。
私たちに、好奇心を持つことの大切さ、疑問をもつことの大切さを教えてくれてありがとう。でも、何より、お互いの違いを認め合うことの大切さを教えてくれてありがとう。あなたは私たちのヒーローでした。
私たちは一度も会ったことがないけれど、あなたは家族みたいなものです。
あなたがどれだけ苦しんでいたかを知って、胸が潰れそうです。
母が病気だった時、あなたの本、テレビ番組をとても楽しみにしていました。あなたの冒険を見ることでどれだけ母が楽しみ、救われたか。どんなに感謝しても足りません。
これらを読みながら、これほど多くの人生にポジティブな影響を与え、希望を与え、世界の美しさや面白さを伝える存在でありながら、その一方で彼自身は誰にも言えない、どうしようもない絶望的なものを抱えてて生きていたという、そのことを痛ましく思った。
愛されていると知っていても……
ケイト・スペードの店の前にも追悼のメッセージが……。
同じ足でケイト・スペードの店にも行ってみる。ロックフェラーセンターのど真ん中にある店のウインドウに、「われわれのブランドの偉大なる創始者であるケイト・スペードが亡くなりました。このつらい時に、彼女のご家族と共に彼女の死を悼み、彼女がこの世界に生み出してくれたすべての美しいものに対し、敬意を表します」とある。
これほど人々に尊敬され、愛されていたということ、自分がこれほどまでに惜しまれる人間だったということを、彼らがもし生前知っていたら、こんな風に死ななかったのではないか、という考えが一瞬頭をよぎった。でもすぐ、違うだろうという気がした。
多分、ボーデインもスペードも、愛されていることは十分に知っていただろう。知っていたけど、それでもなお埋めることのできない穴が心の中にあったということなのではないか。
ボーデインの死のニュースが流れた朝、私は見てまず、「飛行機でも落ちたのか」と思った。その次に思ったのが「ドラッグのオーバードーズ?」だった。自殺だと知った時の思いは、「なぜ?」だ。
もちろん人がどんな苦悩と闘っているかは、他人には100%はわからない。でも、今回、スペードとボーデインの自殺が私たちをことのほか混乱させているのは、彼らの公のイメージがあまりにポジティブだったからだ。そういう意味では、ロビン・ウィリアムスが亡くなった時に似ている。彼のような愉快な人が鬱を患っていたということ事態が驚きだった。
ポジティブなイメージと現実の間にあるもの
スペードのデザインは、カラフルで遊び心があり、明るくかわいらしい。なんの悩みもなく「人生楽しい!」と言っているような色使いが彼女の特徴だ。
ボーデインは、人生に対してハングリーで、全てを楽しみ、味わおうとする姿が魅力だった。好奇心と冒険心がゆたかで、自由でカッコいい。「世界のどこにでも行け、行った先々で美味しいものを食べ、面白い体験をし、会いたい人に会い、それを番組にして楽しそうにやっている。世界で一番すてきな仕事をしている」と羨ましがられ、彼自身も「この世で最高の仕事だ」と述べていた。
でも、いくら最高の仕事でも、ずっと最高というわけにはいかないのかもしれないし、常に「あんな風になりたい」と思われることは、それ自体、もしかしたらしんどいことになり得るのかもしれない。
SNS の発達のおかげで、私たちが日々お互いについて得られる情報は急激に増えた。有名人と直接SNSでつながることも可能になったし、彼らの生活を垣間見ることもできる。結果、私たちは有名人にせよ、友人にせよ、他人のことを理解していると思い込みやすくなっているが、私たちが見ているのは、そのたった一部分、しかも切り取られ、見栄えよく編集された一部分にすぎないのだ。
同じ日、タイムは、「Anthony Bourdain, Kate Spade and the Dangers of Envying “Perfect Life”」と題した記事のなかで、やはり、他人の人生の良し悪しを外から判断することの不可能さについて取り上げている。その中で、
「彼らのような人を見ると、私たちは『こんな完璧な人生で、これ以上なにが欲しいというのだ?』と思いがちだ。でも、ボーデインもスペードも、もうこれ以上そんな自分の人生を生きることに耐えられなくなったのだ」
「これらの死が教えてくれることがある。嫉妬というものの無意味さだ。完璧な人生なんてそもそもないのだ」
と述べている。
「全てを持っている」ことと「幸せである」ことは同じではないはずなのに、私たちはその2つを混同しがちだ。でも、富や名声を蓄積しても幸せになるとは限らない。表面上豊かに見える人生が本当に幸せなものかは、外からはわからない。どんな人生にも必ず、それぞれの秘密、トラウマ、傷口、闇がある。今回の2つの自殺を通し、この当たり前のことに気づかされた人は多かったのではないかと思う。(敬称略)
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文・渡邊裕子(わたなべ・ゆうこ):ニューヨーク在住。ハーバード大学ケネディ・スクール大学院修了。ニューヨークのジャパン・ソサエティーで各種シンポジウム、人物交流などを企画運営。地政学リスク分析の米コンサルティング会社ユーラシア・グループで日本担当ディレクターを務める。2017年7月退社、現在は約1年間の自主休業(サバティカル)中。