女優の川島なお美さんが2015年9月、54歳で亡くなり、1年半が過ぎました。
胆管がんに侵されながら、亡くなる1週間前まで舞台に立ち、女優であり続けようとした川島さん。
夫でパティシエの 鎧塚 俊彦さんは、妻の決断を尊重し、闘病を支えました。
余命は尋ねず
「女房は幸せだったと信じないと、残された人間は生きていけない。近くにいた僕がぶれたら女房にも失礼です」
14年7月、女房のがんが再発し、余命1年と宣告されました。余命宣告を受けたのは僕だけです。必死で生きようとする女房は、あえて医師に尋ねようとはしませんでした。
人間は、明日もあさっても、来年も再来年もやって来ると思いがちです。でも、その日から僕は、一緒に過ごす一つ一つのことを大切にするようにして、深刻な顔をせず明るく接するようにしました。女房も僕と同じように過ごしていました。それはとても幸せなことでした。
がんが見つかったのは13年8月。当初、川島さんは手術を拒み、代替療法を模索していた。しかし、がんは消えず、14年1月に 腹腔 鏡手術を受けた。再発はその約5か月後だった。
つきあい始めたころ、「僕はパティシエだけど不器用なんだ」という話をしたら、「私もよ」と言っていました。生まれながらの女優ではなく、女優になりたかった人なんです。不器用で、ずっと憧れに向かって生き抜いてきた。だから、体にメスを入れるのをためらったのだと思います。見た目だけでなく、ミュージカルの発声に悪影響が出るのも心配だったようです。
がんの再発後は副作用を懸念して抗がん剤を一切やめ、免疫療法などを取り入れながら舞台に立ち続けました。病状について、自ら進んで公にすることもありませんでした。
こうした対応にお叱りもあるでしょう。夫として最善を尽くせたのか、という心の葛藤はあります。しかし、最終的には本人が決断したことです。自分なりの幸せの尺度を持って、しっかりと病気と向き合った女房を心から尊敬しています。
幕は下りても
抗がん剤治療を選ばなかった川島さんは、肝臓で処理し切れない水が腹にたまる「腹水」を抜く治療を受けながら、舞台に立ち続けた。しかし、再発から1年余り。15年9月の長野県での公演後に倒れ、入院した。9月23日には吐血し、意識が遠のいていった。
翌日の9月24日、僕はベッドの横で付き添っていました。それまでも付き添ってきたのですが、この日は手をずっと握っていました。
「きょうは徹夜だな、長い夜になるね……」
心の中でそんなことを語りかけていると、看護師さんが走り込んできました。「危険な状態です」って。心拍数などを管理する計器は、看護師の詰め所にあったようです。
厳しい状況が続く中、急に女房が手をグッと握り締め、上体をワッと起こしました。びっくりしました。そして、しっかりした目で僕を見て、ハッと息を吐きました。
その後、ガクッとなりましたが、「がんばれよ」「死んだらだめだよ」と呼びかけたら、またフッと息を吐きました。もう少しすると、もう一度、息を吐いてくれました。
「もういいですか」とお医者さんに言われました。僕の目を見て息を吐いた時は、もう亡くなっていたそうです。あとの2回は肺にあった空気が単純に出てきたのか……。僕の呼びかけに応えてくれたのかもしれません。
おしどり夫婦として知られた2人。お互いを思いやる気持ちは、最後まで途切れることがなかった。
お互いに相手を驚かせて喜ばせることが大好きで、誕生日などにサプライズパーティーをよくしていました。僕の誕生日は10月。女房が亡くなったのは9月だったので、最後の年は、「こんな体調だからごめんね」と言われていました。ところが、病室から友人たちに電話をかけ、僕の誕生会の段取りをしてくれていたのです。知ったのは、女房の死後でした。
僕の誕生会は彼女の遺志通りに開かれ、友人らが女房から預かったプレゼントを渡してくれました。腕時計でした。生前常々、「時計を贈ると別れるジンクスがあるから、あなたには絶対渡さない」と言っていました。お別れの気持ちを込めたのでしょうか。
担当医は、「舞台が命を縮めたのではない。舞台があったからここまでがんばれた」と言ってくれました。救われた思いがしました。女房が女優にこだわって生き抜いたことは、僕なりに世に伝え続けたいと考えているんです。
よろいづか・としひこ 1965年、京都府生まれ。スイスやフランス、ベルギーなどで8年間パティシエの修業を積む。2009年に川島さんと結婚。東京・京橋や六本木などにスイーツの店を展開。神奈川県小田原市に農園を併設したレストランを開くなど、農業の活性化にも尽力している。