給食のパンを手に笑顔を見せる小学生たち(1952年撮影)
日本人の主食の座をコメと並んでパンが占めるようになったのは、GHQ(連合国軍総司令部)が主導した学校給食がきっかけ――。
多くの日本人が頭に浮かべるだろうエピソードだが、それ以前にも、国内でパン食普及を巡り四苦八苦した経緯があったのをご存じだろうか。
今、東京・大田区の「昭和のくらし博物館」に足を運べば、身近な存在であるパンのあまり知られていない歴史に触れることができる。
「ちゃぶ台」「町医者」など、昭和期の庶民の暮らしをテーマにした企画展を毎年度開催している同博物館。
現在の企画展「パンと昭和」では昭和期以前に遡り、専門家ら13人がパン食普及の背景などを1年がかりで調べた成果を紹介している。
幕末期、幕府の代官が兵糧用として硬いパンを焼かせたのが、日本の本格的なパン作りの始まりとされる。明治になると軟らかいパンも登場し、「あんぱん」などが人気になったが、一般には「間食」として扱われていた。
そのパンを「主食」の一つにしようと目論んだのが、明治、大正期の大日本帝国陸・海軍だった。
日本では昔から「白米信仰」が強いが、副食で栄養を補わないとビタミンB1欠乏で脚気に なりやすい。
実際、白米ばかりを食べていた兵士の間で脚気が流行したという。このため、B1を含む小麦で作られるパンに目を付けた。
さらに、評価されたの が戦地や艦内での扱いやすさ。米飯に比べ、腐ったり凍ったりしにくく、炊いたりゆでたりの調理も不要。
いわば理想の「ミリめし(軍用の食糧)」だったの だ。
そこで、兵士たちに握り飯の代わりにパンを支給し、どんどん食べさせようとした。
しかし、白米が何よりのごちそうだった当時、パンは兵士たちには不人 気で、米飯を求めるハンガーストライキが起きたり、軍艦から投げ捨てられたパンのかけらが海面を覆う様子が風刺画に描かれたりしたという。
軍配給のパンの 出来が悪かったかもしれない。いずれにしても「おいしい」という感覚は時代で変わるのだ。
その後、日中戦争中にコメの節約が求められると、パンは「代用食」として国民の間でもさかんに奨励された。
戦後の食糧難の時代には、アメリカからの食糧援助で大量の小麦が届けられ、昭和20年代にGHQの意向を受け て「パンとミルク」をメニューの中心に据えた学校給食が各地で始まった。
GHQには、アメリカ国内で余った食糧の輸出先を確保するため、日本にパン食を根 付かせる狙いがあったことはよく知られている。
以降、「米飯給食」が導入される1976年(昭和51年)まで、パンは学校での主食の座を占め続け、広く日 本人の食卓に定着することになる。
企画展では、こうした様子を伝える資料として、旧日本軍で支給されたパンの復元写真や終戦直後のパン焼き鍋、コッペパンとおでんが並ぶ昭和30年代の学校給食の模型などが展示されている。
「戦後に広まった印象から、パンには『平和や豊かさの象徴』のようなイメージもあるが、普及の陰には戦争や食糧危機など、日本の大きな転換期があった。
これからの食生活を考えるきっかけにしてもらえれば」と学芸員の小林こずえさん。
企画展は来年3月まで。昭和のくらし博物館は金、土、日曜日と祝日開館。入館料は大人500円、高校生から小学生までは300円。
子供のころは ご飯よりパンが好きだったけど
いまはご飯の方が 好きになりました (^_^;)