「ウチもできた妻なら」とため息をついていませんか。
“笑う哲学者”土屋賢二氏が結婚の神髄を語り尽くします。
土屋賢二 ユーモア・エッセイスト
東京大学文学部哲学科卒業。1975年にお茶の水女子大学に講師として就職、同大教授、文教育学部長などを経て、2010年より同大名誉教授。専門は哲学。『ワラをつかむ男』『妻と罰』など著書多数。
独身者から見ると 既婚者には人格者が多い よーな気がします
人格者だから結婚できたのか 結婚したから人格者になったのか (^_^;)
女と電気製品を一緒にしてはならない
その証拠に、それを聞いただけで女は「〈扱う〉とは何事か。電気製品みたいに言うな」と怒るだろ う。
もちろんわたしは、女と電気製品を一緒にするつもりはない。
電気製品は維持費がほとんどかからず、寿命がくれば文句も言わず黙って故障するだけだ。
女とは大違いだ。
女は簡単に怒る。怒る原因は無数にある。
しかもたいてい、なぜ怒っているのか理由がわからない。
理由を聞くとさらに怒るから、聞くに聞けず、どこを直せばいいのかわからないままだ。
以前、妻が女友達数人と旅行に行ったとき、中の1人の携帯にそのダンナから「こちらは月がきれいです。そちらはどうですか?」というメールがきたの で、その奥さんは怒って直ちに消去したという。妻はわたしにその話をして「ひどいでしょう?」と同意を求めた。だが、このメールがなぜひどいのか、理由が わかる男がいるだろうか。
何もわからないまま、「たしかにひどい」と同調することしかできなかった。見当違いかもしれないが、女は「こっちは旅行で楽しく騒いでいるのに、なに浸っとんねん!」と怒っているのではなかろうか。
もちろん、怒っている本人には、なぜ自分が怒っているのか、10回のうち4回は理由はわかっている。以前、女子大で教師をしていたとき、学生に「自 分がボーイフレンドになぜ怒っているかわかっているか」と聞いたところ、全員が悪びれることなく「わかっていないこともある」と答えた。
昔、ある太った中年女に「体重はどれぐらいあるの?」と聞いたところ、「そんなこと言えるわけないでしょう」と怒られたので、「じゃあ、下2桁だけ教えて」と言うとさらに怒られた。ヒントを聞いても怒るのだ。
また昔つき合っていた女に「A子ちゃん、スッピンもきれいだね」とホメたところ、「何時間かけてメークしてると思ってるの? それにわたしはA子じゃないっ!」と激怒した。こんなわずかなミスにも怒るのだ。
しかも怒り方が不条理だ。妻が出した期限切れの食べ物を食べて男が具合が悪くなったら、「どうしてそんなに弱いの」と男を責める。買った服をホメな かったら「見る目がない」と言って怒る。女を見る目がないのはたしかだが、自分の意思でどうにもならないことを怒るのは、尻尾が生えていないといって怒る ようなものだ。
こういう女と平和な結婚生活を送る方法はある。まず家庭は安らぎの場だという先入観を捨て、帰宅したら最大限の緊張を保ちつつ、言動に細心の注意を 払い、一歩家の外に出ればホッとするぐらいでなくてはならない。これだけ注意すれば、妻の怒りの1割は減らすことができるはずだ。
こう書くと、「結婚するな」と言いたいのかと思われるかもしれないが、わたしが言いたいのはその逆である。結婚には幾多の欠点があるが、それを補って余りある利点がある。
問題は悪妻に絞られる。「悪妻をもった哲学者」は二重苦である。長年哲学者をやっているわたしが言うのだからたしかである。ただ幸い、哲学者になる人は少数だ。ふつうの男はそれより軽度の不幸に耐えればいい。
多かれ少なかれ不幸になるのは事実だが、それでも結婚すべきだとわたしは言いたい。結婚しなければ苦労も苦悩も屈辱も絶望もない。人生の重要な半分 を知らないまま死んでいいのか。安楽なだけの人生は、波乱のないドラマのようなものだ。そんなドラマを見て面白いか? わさび抜きの握り寿司を食べておい しいか(わたしは刺し身さえついていればいいが)? 障害を乗り越える喜びも、乗り越えられない悔しさも、妻が外出したときの束の間の解放感も味わえなく ていいのか。人生を悔いなく味わい尽くしたいなら、ぜひとも結婚すべきだ。
それでも結婚は犠牲が大きすぎると思うかもしれない。検討してみよう。
自由がなくなる
自由にはさまざまな種類があるが、そのいずれも結婚は奪ってしまう。ある意味ではその通りである。たとえば結婚すれば自由に金が使えないのはたしか である。だが、自分の小遣いを増やしたいならもっと稼げばいい(わたしがいつも妻に言われていることだ)。月収を10万円増やせば、交渉次第では、1カ月 あたり500円から1000円は小遣いを増やしてもらえる可能性がある。
また言論の自由もなくなるのはたしかである。必要以上にしゃべると逆鱗に触れる恐れがあるからだ。だがそれだけことばを大事に使う習慣が身につくこ とを忘れてはならない。だいたい現代人はことばを粗末に使いすぎているのだ。できれば平安時代の貴族のように、男女の間では和歌でしかやりとりしないよう でありたいものだ。
忘れがちだが、沈黙する自由もない。妻に質問されて何も答えられずに黙っていると「何か言いなさいよ!」と叱られるし、妻の料理を食べて黙っていれ ば批判と受け取られるから、黙って食べることは許されない。食べた感想は「おいしい」とその同義語しか認められない。服などを買いにいって、「どっちが似 合う?」と聞かれたときも、口ごもってはいけない。
「どっちも似合うから2つ買えば?」と言わなくてはならないらしい(それを知ってから、そう言おうと思っていたら、妻は1度もわたしの意見を聞かない。わたしに聞いても意味がないと思って相談なしに買っているのだ)。
話す自由はないかわりに、話を聞く自由は十二分に保証されており、つまらない話をイヤというほど満喫することができる。退屈だと思うかもしれない が、実はスリル満点だ。長々と聞かされるうちに真剣に聞かず、適当にあいづちを打ってすませるようになるが、あいづちを間違えれば激怒されるし、後で「聞 いてなかったの? あのときバッグのお金を用意しておくと言ったじゃない!」と言われるから、気が抜けない。どこに地雷が埋まっているかわからないスリル があるのだ。慣れてくれば、脳の4分の1を使って話を聞く能力が身についてくるから、会社の会議などに応用できる。
結婚すれば行動の自由も制限され、趣味やギャンブルにハマることは許されなくなる。だが、社会の中にいるかぎり、独身でも万引や空き巣などの行動は 規制されるのだから、不自由なのは程度問題である。そんなに自由に行動したいなら、無法地帯で暮らして被害者になる覚悟があるのか?
行動の自由が奪われたら、冤罪で刑務所に入ったと思えば問題ない。しかもその刑務所の運営費は自分が出していると思えば気も安らぐはずだ。安らがなくても、自分は無実だと思っていられるから心配はいらない。
そもそも家庭にも人生にも安らぎを求めてはいけない。安らぎは地上にはない。安らぎを人生に求めるのは、魚を買いに八百屋に行くようなものだ。安らぎは死んだ後の楽しみにしておけばよい(地獄に落ちてはいけない)。
区役所や銀行に立派なソファーがある理由
自分の時間も自分の空間もなくなる
たしかに自分の時間はなくなるが、社会生活を営む以上、時間の制約は当然だ。犬を飼っても決まった時間に散歩に連れていかなくてはならないのだ。か りに自分の時間が確保できても、金がなければ暇をもてあますだけだ(それが実感できなければ、図書館にあふれている定年後の中高年男を観察すればいい)。 金があればギャンブルなどに使って妻の怒りを買うだけだ。自分の時間がないぐらいのほうがストレスもない。多くの動物は生き延びるために死ぬまで働きづめ で、ストレスを感じる暇もないのだ。それを見習えばいい。
空間も同じだ。自分の書斎をほしがる男がいるが、空間が与えられれば効果的に使えるのだろうか。机の引き出しでさえ、効率的に使っている人が何人い るだろうか。机の引き出しもちゃんと使えなくて何が男の空間だ。まともに空間を使えない者が自分の空間を要求するなど、贅沢すぎる。女は自分の部屋など要 求しない(家全体が女のものだからだ)。自分の部屋をもってもどうせ生産的なことはしないのだ。せいぜい爪を切ったり耳掃除をするのが関の山だ。わたしは 自分の部屋がなく、居間で執筆の仕事をしているが、居間にはテレビもステレオも冷蔵庫もあって快適である。
だが結婚して長年たつと、居間も含めて自分の家に「居場所」がなくなるのは事実である。家のどこにいても妻が邪魔物扱いにするからだ。不当だと思う かもしれないが、考えてもらいたい。大きくて捨てられないゴミが家の中にあったら、だれもが邪魔だと思うはずだ。女の目には夫がそう見えているのだ。た だ、男も動くことはできるから、家事を手早くすませたら、速やかに外に出るのがよい。そのために公園があり、図書館があり、デパートの階段わきには椅子が 置いてあり、区役所や銀行や証券会社には立派なソファがある。しかも冷暖房つきだ。
自分の価値を認めてもらえない
結婚すると、妻の厳しい評価にさらされることになる。結婚前は自信にあふれ、怖いもの知らずだった男が、妻の顔色をうかがうようになる。結婚後10 年もたてば、男の評価は急激に下がり、ゴミ扱いされるようになるから、自分でも、給料を稼ぐ以外に自分の価値があるのかわからなくなる。それが気に入らな いなら、自分の価値を数え上げてもらいたい。驚くほど価値がないことがわかり、妻の厳しい評価こそ自分の真の価値だと知るはずだ。
妻の厳しい視線にさらされるおかげで独善的にならないですむのである。何となく自分はひとかどの人間だと思い込んだまま死んでいくところを救っても らったのだ。自分がただのゴミだと知って初めてゴミから脱却する努力をするようになり、努力して初めて半人前になり、家庭内順位がバッグの下から、犬の下 にまで昇格する。
労力が増える
労力を自分以外のことに使わなくてはならないのはたしかである。夫婦で分業だとしても男のほうが労力を払いすぎており、不公平だ。こう思う男もいる が、口が裂けてもそんなことを妻に言ってはならない。妻は自分のほうがはるかに家庭のために自分を犠牲にしていると思っているのだ。
そもそも男が共同分担というケチくさい考えでどうする。家事を妻まかせにすると、まずい料理を文句も言えずに食べ、お茶1杯頼むにも遠慮するように なる。そんな卑屈な思いをするぐらいなら、家事を自分が分担したほうがよっぽどラクだと思うはずだ。選ぶ道は2つに1つしかない。卑屈になってでも妻に やってもらうか、誇りをもって家事を引き受けるかだ。わたしは卑屈になるほうを選んでいるが、わたしの父は仕事も家事も子育ても文句1つ言わずに全部1人 でやっていたから、やれないことはないはずだ。「共同分担」にこだわるなら、料理と後片付けは夫、食べて批評するのは妻の仕事、家事全般を引き受けるのは 夫、遊ぶのは妻の分担だと思えばいい。
もう明らかだろう。結婚は女を増長させるかもしれないが、確実に男を鍛えるものだ。男が人間を叩き直したいなら、座禅して瞑想にふけるより結婚する ことだ。人格は錬磨され、人生の暗い面、手に負えない面を余すところなく経験できるのだ。
それだけメリットがあれば、幸福になる必要がどこにあるだろう か。
独身の人には、ぜひ結婚してもらいたい。
そしてできれば、わたしと代わってもらいたい!