クローヴィスとワカタケル
5世紀の西欧と日本の類似性
濱田英作 国士舘大学教授
2010/02/04(木)
前回は、モンゴル高原の匈奴と黒海北方のスキタイという、紀元前におけるユーラシア東西を代表する古代騎馬遊牧民の酷似について述べた。今回はそれに引き続き、さらに範囲を広げて、洋の東西の北方文化の相似について書いてみたい。
高校の頃、吉川弘文館の世界史年表を見ていて、興味深いことに気がついた。ところで年表というのは、横に見ないとだめなのだ。
これは私の母校、新宿高校の授業で、かの有名な武井正教先生から教わったことだ。「武井の世界史」なかりせば、私の現在またあり得ない。
それは何かというと、西ローマ帝国滅亡直後、現代西欧、EUの元祖ともなるべきフランク王国を建国したゲルマン人フランク族メロヴィ ング朝の始祖であるクローヴィス大王は、日本列島古墳時代、ヤマト王権の最盛期を示す「倭の五王」の代表ともいえる倭王武、おそらく鉄剣銘に記される獲加 多支鹵(ワカタケル)大王、すなわち日本書紀の大泊瀬幼武命つまり雄略天皇と、まったく同時代、5世紀後半の人なのだ(ちなみにイタリアに建国した東ゴー ト王国の始祖テオドリクスも同時代人で、この人は“ニーベルングの指輪”の英雄「ベルンのディートリヒ」として伝説化されている。まさにユーラシア東西端 の民族神話の形成期なのだ。もっと言えば、「アーサー王」もそうした人物だ)。
この5世紀という時代は、ヨーロッパにフン族が侵入し、そのあおりでローマ領内外のゲルマン族が大動乱を繰り広げたときで、それはほぼ1世紀先んずる東アジアの五胡十六国時代と軌を一にする、ユーラシア全土における北方民族南下の動きの一環であった。
そしてこの時期のゲルマン諸族の武具武装は、日本の古墳から出土するそれと、ほとんどまったく区別がつかないのである。
かれらの兜は、ドイツ語で「シュパンゲンフェーダーヘルム」といって、訳すと「締金付樽型兜」ということになる。つまりビールの樽を 半分に切ったような形で、先細縦長の楔形鉄板を何枚か矧ぎ合せ、頭の鉢のところと頭頂部のところを横板で留め、最上部には飾りとして馬の毛などを取り付け ているものだ。またその鎧は英語で「ラメラー・クィラス(層状重ね胴鎧)」といい、鉄の小札(スケール、魚鱗のこと)を紐で横列に綴じ合せて、下の列が上 の列の上に、つまり外側に被さり重なるように縅し下げていくものだ。これならば、体の動きに合わせて少なくとも上下には伸縮自在だし、特に馬上では横綴じ の列が重なって貫通防御力が増す工夫だ。
これが古墳時代の武具だと、兜は「蒙古鉢型兜、眉庇付兜、縦細長板冑、竪矧細板冑、棘葉形地板冑」などと呼ばれるものに、また鎧は 「挂甲」に、それぞれ相当する(これが平安鎧を経て、源平武士の大鎧や胴丸鎧に発展する)。埴輪の武人が纏っているのは、たいがいこの形式の鎧だ。また兜 にも、これを表わしたものがある。
クローヴィスとワカタケルの姿がなぜこんなにも似通っているかというと、それにはやはり訳があって、この形式の甲冑は元来、西アジア を支配したアルサケス朝パルティア、その後継者ササン朝ペルシア、そしてその戦術の影響を受けた東ローマ帝国の重装騎兵(ギリシア語で「カタフラクト」) の武装に、その淵源がある。この重装騎兵は弓に加えて重い槍を構え、ラメラー形式の甲冑で全身を包み、それに同様の構造の馬鎧で完全防御を施し、凄まじい 集団突進力で、ローマの重装歩兵軍団をしばしば蹴散らした。つまり西洋騎士の元祖でもある。
そのパルティア人の故郷はどこかといえば、どうやら中央アジア、西トルキスタンの草原で、かれらはスキタイ人の後裔とも考えられる騎 馬遊牧民であり、後にヘレニズム・セレウコス朝の影響下に西アジアで発展したらしいのだから、当然、草原のシルクロード(ステップ・ルート)を介して、フ ン族、さらには中国に侵入した五胡とも大いに文化的繋がりを持っていただろう。そして五胡を統一して北朝を作った北魏はツングース系騎馬狩猟民の鮮卑族の 王朝であり、東隣の高句麗(扶余族)とも文化上の関わりは深い。現に高句麗の古墳壁画には、馬鎧をつけた重装騎兵が描かれている。そしてその北方文化が朝 鮮半島や日本列島へと伝わり、古墳出土の武具武装に、あるいは埴輪に、その面影を留めているのである。
さてこの古墳時代の武具武装は、やがて縅し紐の色彩ばかりを強調する源平以降の具足へと発展し、他方西欧においてはラメラー・クィラ スは衰微して、ケルト・ラテン伝来の鎖鎧に鉄板を組み合わせた例のガチャガチャ音のする中世鎧スタイルに変化して、一見両者にはなんの関連もないように思 えてしまう。
だが紀元1世紀、ドイツのスエビ族の老戦士の遺骸は頭を美豆良(みづら、ただし片美豆良)に結っていたことを知れば、われわれ日本人も、西欧形成史に関して、もっと興味と親しみが増すのではないか。
日本と西洋、このユーラシアの両端の要にはやはり中央アジアというものがあって、そこの歴史文化的研究は、前二者をまさに「横に」関わらせて考えさせてくれる。あるいは逆にまた、日本と西洋の比較文化研究の視点を、中央アジアや西アジアに照射することもできるだろう。
(編集担当:サーチナ・メディア事業部)
出典 http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0204&f=column_0204_002.shtml
なんてったって、サンダル~♪ (^_^;)
まん中のオッサン ネクタイもしてないよ ダラケてるなー