W杯審判 西村雄一さん 座談会

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2010年10月26日 都立新宿高校 校長室 

座談会出席者

西村雄一さん(新宿高校出身)

篠田校長先生
霧生先生
小口先生
PTA役員
広報委員
サッカー部員

<今日は新宿高校PTAの広報誌、同窓生シリーズの記事のためのインタビューです。よろしくお願いします。>
西村雄一さんロングインタビュー《学生編》 (画像 1)

(広報誌を見ながら)実は私、駒沢競技場からすぐのところに住んでいるんです。「そういえば新宿高校体育祭、ってなんか見たぞ?」って(笑)。
僕、在学中体育委員長だったんです。
体育委員長って今は3年生までやってますか?僕の代から「球技大会3年生がいないと盛り上がらないので」ってことで、任期が3年まで延びて、2期やりました。

運動会も全部、企画からやってたころで、学年が9クラスっていう、めんどくさい学年だったんです。4色とかができないんですよね。色対抗をはずして、うちの学年のときにはやったりとかして。
僕らのときにはまだ運動会は校庭でした。道路に面しているほうに校庭があって、プールがあって。今校舎がある所が校庭でした。甲州街道から学校に入るってことができない時代でした。グラウンドは面しているんですけど、ネットだけで。
出入りは、HISのあたりから細い道を入って、入ったらすぐ朝陽会館があったんです。見ていないので今どうなってるのかわからないんですが。
<一応、門はあります。閉じていますが>

それで、同じようにピロティがあって。僕らのときは、外に出ていく、扉に囲まれていない吹きっさらしのピロティで。あの、新宿御苑の天然記念物の高い3本の樹が、どの校舎からも真正面に見えているような感じでね。
<今も、ここからちょうど見えます>
テ ニスコートがあって、こちら側のグラウンドではサッカー部、野球部、ラグビー部が兼用してましたね。公式の試合もできました。ほかに、ハンドボールのコー トもありましたよ。結構広かったんでしょうね。体育館もそれなりの広さがありましたし。体育系の部活動は盛んにやっていたほうだったと思います。

校舎はずっと横に長いんです。僕らはIクラスまであったんですね。9クラスだから。ひと学年1フロアに収まらなくて、視 聴覚室を使っていました。雨が降ったら、運動部は普通に廊下でガンガンにトレーニングをしてましたよ。長くとれるから、走ったりね。今は7階って、上に伸 びたんだなと思いました。僕らは4階までの校舎で。古いけど、歴史を感じるような校舎でしたね。
そのときにはまだ、伝統の先生っていうのがいて。そういった歴史のある先生たちにも囲まれてて。先生と生徒の触れ合いが、近い学校だったっていうのが、すごくこう、記憶にありますね。体育教官室にけっこう僕は入り浸りで。行事が目白押しなので。
朝陽カップ?でしたっけ、年間通してなんかやっていませんでしたっけ?バッジをかけて。

 

<「校長杯」ですね>
「校長杯!」校長杯は、僕らのときにもあって、球技大会・体育祭・もう一回球技大会があるのかな。マラソン大会。合唱コンクールも入れて…
<今は、合唱コンクールは入っていないんです>
僕 らのときには、文化系も入っていないと公平ではないいうことで、合唱コンクールも入れて、年間かけてやってましたね。で、その校長杯のバッジのデザインを 公募して。生徒のデザインしたバッジのデザインで、争って、で、勝ったクラスにはのバッジがもらえるので。校章よりもけっこう、なんていうかステイタスが あって(笑)年間かけて、行事に向けての連帯感がありましたね。合唱コンなんかやるとこう、クラスの一体感が高くなって。男女協力して、っていうのがあり ましたね。文化祭だけはどうしても、点数のつけようがないものなので、外さざるをえなかったんですけど。
僕は2回とったのかな?学年の勝利クラスに渡しているので、僕はうまく2回もらえたんですよ。
文系クラス、理系クラス、ってあるんですか? 僕のときには、それで男女比がくずれちゃったりするんですよ。
<今は女子のほうが多いんです> 
そうなんですか?僕らのときは、理系クラスの方が男子が若干多くなったりしてましたが。

体育祭運営とかは、全部生徒でやっていましたね。体育祭、球技大会運営なんかは全部。先生方には種目に出て盛り上げてもらうって形でした。そんな感じのときでしたね。
(卒業アルバム見ながら)写真見たら、懐かしいなぁ。プール大会、ってありますか?
<今はないです>
水泳大会もありました!得点になりました。
<今、背泳ぎでインターハイクラスの子がいるので、今あったら西原君のクラスが優勝かもしれないですね~>
だいたい、そのくらい(行事が)ばらけると、だいたいクラスの誰かが脚光を浴びれるというか、そういったところはやっぱりあったので、いつも足の速い人だけが、なんてならないようにいろいろ考えて…。

西村雄一さんロングインタビュー《学生編》 (画像 2)

体育祭も校庭でやってましたからね。駒沢じゃありませんでしたから。
放 送部が盛り上げてくれてね~。新宿体操!あれは僕やってないんです。体育委員長はやらなくて、あれは体操部がやるんです。当時は体操部があったので、「体 操部がやらずに誰がやるんだよ」ってうまく口説き落として、やってもらいました。僕は人前で踊りたくなかったので(笑)。
(アルバム、部活のページを見ながら)サッカー部は、僕らの学年には4人しかいなかったんです。結構抜けちゃったみたいなんですよ。僕も1年生の時しかやっていなかったんで。
<西村さんは駒沢FCでずっとやっていた?> 
そうです。僕は駒沢サッカークラブの登録の関係があって、1年生のときにだけ「学校でサッカーやってみる」といって駒沢をいったん抜けて、新宿高校に登録して1年間出させてもらって。そのときに3年生とすごくよく一緒にやっていました。

 

西村雄一さんロングインタビュー《学生編》 (画像 3)<サッカーを始められたのは?>
幼稚園です。駒沢公園でたまたまボールをけっているグループがあって、そこに「入れて~」って言って入って行ったのがサッカーとの出会いなんで幼稚園のと きなんですけど。そのときに小学生くらいになって「じゃあ、チーム作るか」ってなって、僕は駒沢FCの1期生なんです。うちのクラブ自体は女子もあるし、 高校生も社会人もあって、クラブとしてはいちおう全部のカテゴリを持っているんですけど。そこの審判員でもあったりとかして。レフェリーを始めるきっかけ も、指導者やれるチャンスも、駒沢サッカークラブであったんですけど、でも学校サッカーで一回やってみたかったんです。1年間しか所属していませんが。
僕らの学年では、めちゃイケのプロデューサーで有名な中島というのが、僕の同期です。アルバムにいるんじゃないかな?同じクラスでした。実際にめちゃイケを見ているタイミングがなくて、目で見ていないからどうにも自信がないんですけど…これ、だと思うんだ。違う?
<あ、似てますね!今はもっと太ってますけど> 
中島プロデューサーってのがいるよ、って言われて、「え?あのナカジが??」って感じで。あ、よかったよかった。あってますよね。ここにきて僕も1つクリ アになりました。あ、そのページに僕もいますから(笑)言っておかないと。本当に、バラエティに富んだ9クラスで、面白かったですよ。

僕らのときはギリギリ鉄拳セーフでしたね。僕らもわきまえて受けるし、問題にはならないけど、今は大変でしょうね。
野球部の顧問が僕らのときには有名な人でした。あと、担任は足助先生です。力石徹みたいな先生でした。

 

サッカーのポジションは、僕は全部やりました。この学校にいたときはディフェンスで、当時はリベロというポジションがありました。
審 判の資格を取ったのは18歳の時です。僕のときにはユース審判員という制度がなかったので、最低の年齢で18歳だったんですよ。クラブチームで「やりたい な」と思った時は16歳、2~3年待って、18歳になってすぐ4級を取って、3級には20試合やるとなれるので2ヶ月くらいで上がりました。3級は最低2 年間やりなさいという決まりがあるので2年間やりました。2級に推薦してもらい、テストを受け7年間くらい。18で始めて今38だから、20年くらいやっ てるかな。そのぐらいやってもまだ、うまくいかないときもたくさんあるから、終わりはないというか。でも、20年間やって、いつも、新しいものにしか出会 わないですから。

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サッ カーって、同じ試合はないですよね?対戦相手が同じでも、プレーヤーが違ったりとか、ゲームって、似たようなシーンはあったとしても、決して同じものはな いので、出会うものは必ず新しいものに出会えるから、飽きない。それが審判の醍醐味。瞬時にパンっと判断していかなきゃいけないっていうのは、あんまりな いことなのかな、と。それが面白くなってのめりこんじゃったんだね。

校長先生がおっしゃった“主役”(ワールドカップでは裏方というか…主役でしたねとの校長先生の言葉)っていうのは、僕 からすると恥ずかしい感じの言い回しで、基本的には試合が終わったときに記憶に残らないようなレフェリーが、たぶん良いレフェリーなんだと思います。 活 躍したのは選手で、みんながゲームを楽しんだ。その中の一部ではあるんだけど、僕は目立たないってことは、たぶん、受け入れられたってことだと思うんです ね。だから試合終わった後に選手に受け入れられたかどうか、ってところはひとつ僕らのバロメーターです。

今回のように、正しい判定をして注目された、っていうのは、すごく珍しいケースですね。もうちょっと付け足すと、今回の スーパースローでリプレイがすごくいい角度から撮られていて、それで皆さん「すごい!」ってなるということは…皆さん、“正しい判定”が好きなんですね。 間違った判定は絶対いやだけど、正しい判定はすごい!って。

実は、僕はワールドカップに行く前も行ってからも、行った後も、やってることってあんまり変わらないんです。急にうまく なるわけはないんです。ただ、注目のしかたが違ってて。今回、ワールドカップによって、審判サイドから見てもらって、すごく正しい判定をしてるぞ、って興 味を持っていただいて、それを皆さんに受け入れていただいたと感じました。

行く前と行った後では、想像もできないくらいに違う状況になっているので。こんなに、テレビに出るとか、そういうのは考えてなかったですからね。これがあのレッドカードが「黄色」だったら、大変なことになっていたね(笑)。新宿高校の名を汚す、危ない一瞬だったって。

 

<間違いに気付いたのはどうして?>

そういう間違いをした人を見たことがあったんです。あげちゃって、「いや!間違った~」赤の後ろに黄色がくっついている とかね。そういう、いろんなアクシデントがあるんですよ。だから自分は、目の前を通してからあげようと思っていた。それは、20年間の下積みの中で気づけ たんです。

僕はいつも赤は胸に入ってて、黄色は前のポケットに入れているんです。黄色はやっぱり出すことが多くて、笛は右手で持っ ているので、笛をピピーと吹きながら出さなきゃいけないことがあるので、赤はそう滅多に出すことがないのでここなんですが。でも、あのときバーンと赤が出 て、そのあと、無意識にすっとしまっちゃったんですよね。黄色はよく出していて無意識にしまっているんですが、赤はそう滅多に出さないのですが、次のとき 出したら赤で、マジシャンになったかと思いました(笑)。いや、そのくらい、僕にとってはここには黄色しか入ってないはずなのに赤で、俺の黄色はどこに 行っちゃったんだ?って。よかった、あったー!!と思って。で、記憶をつないだら、自然と「あ、ごめんごめん」って笑顔になったんです。そしたら、微笑み もフォーカスされてしまって(笑)。僕にとってはかなりの苦笑いなんですけど、でも、場は和んで。

今回のカメラワークっていうのは、すごいぞと思っていました。だから、赤のシーンも自分の中ではこちらからの角度で見て いるから、自分の頭の中で、アシスタントから見たらこうだろうとか、なんとなく絵が3つくらいあるんですよ。自分のリアルな目と、たぶん、向こうから見て いたらこうだ、こっちからはこう見えて、というのがなんとなく頭の中にあるんです。そういう感じになるんですね。毎日、あの大会で3時間練習をしている と。で、実際は自分の2つの目しか、リアルでは見えていないんだけれど、僕のアシスタントが見ている目とかもすべて利用して、助言も利用して…みたいな感 じです。ピッチの上で今自分がどのへんでどっちを向いている、というのも頭の中に俯瞰図があって、ここにいるんだな、というのが3つくらい頭の中で同時に 動いている。

同じものを見ていてもいつも5個か6個の角度から見ているように考えているんだなと、なんとなく気づいてきて。おそら く、そういうことができるようになるまでの、努力と、指導と、それを実現する自分の力、みたいなのが混ざってくるとそういうふうになってくる。それがまだ 始めたばっかりだと、自分のふたつの目しかわからないけれど、っていう。

色々なことを考えながら頭の中で組み立てるので、かなり疲れてしまいますね。体もやっぱり疲れるんですけれど、頭のほうが相当、疲れてしまいますね。

サッカーのレフェリーが動くのは、さっきこの対角線上で動きますと言ったんだけれど、実際には見えなければだめで。見え ることをどうやってやるのかというのをずっと考えながらやっているんですよね。例えば、君がレフェリーだとして、この手の後ろに何本の指があるのかわから ないでしょ? でも、わかる人がいるんだよね。この、一番いいポジションにいるお二方は、2本に見えているわけ。これを見たいんだよね。かぶっちゃうとダ メだから、自分がここに動けばいいわけだ。それでポジションをとっているんだよね。だから、かぶりそうになったら一番いいポジションに動きたいから、それ でレフェリーはいつも動いている。今、指が増えたことに、そちらの角度からではわからないでしょ?それを想像で当ててみて?
 <2本?>

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で、 実際にはこうだから、それはミスジャッジね。見えてもいないのに、見えたふりをしてやれば、そういうことをやっていくと信頼がなくなっていく。見えてない ものを見えてないと正直に言うと、「じゃ、次は頼むよ」というふうになっていって信頼関係はまだある。嘘をつく判断をすると、たぶん、受け入れられない。 そういうのは一瞬にして信頼関係がなくなってしまう原因。だから、見えなかったらレフェリーとしてダメなの。ダメなんだけど、見えなかったらそれは「次見 るからごめんね」って正直に言う。それは、人間としてのミスはあるから、次はもう一回努力するからさ、ということ。だから、そういうふうな付き合いからが できるかということ。

レフェリーって、見えないものをつくらないように努力しなくちゃいけないんだけど、でも本当に見えないものというのはど うしてもあるから。どうすればいいかっていうと、自分の副審に聞くの。そう、そしたら教えてくれるから。信頼関係があるわけだから。仲間が言ったことを理 解して、信用して、それを最終的には自分の責任として言わなきゃいけないわけだから。それがレフェリー。それが信頼関係がなかったら言えないでしょ。そう いうふうに、ずっと3年間かけてトリオでやっていく。3年かけてやっと、あうんの呼吸になってくる。あの広いピッチで無線を使ってたとしても、無線は便利 な道具だけれど、うまく使えないこともあるし、例えばボールが出たときに「白」と言われても白がスローインなのか白が最後に触ったのかはわからない。で も、「白ボール」と言われれば、じゃあ、次は白から始めればいいんだな、とわかる。

道具というのはあればいいんじゃなくて、使い方で、うまく使えたり、使えなかったりする。その使い方をどんどん鍛錬して いくことが大事で、それは笛も一緒。ただ吹くよりも、自分の気持ちを込めて、抑揚をつけて長さや強さや回数やいっぱいいろんなものを使い分けていくことに よって、選手に受け入れてもらえる瞬間があったり、吹いているけれどもコントロールできないときだとかにつながっていく。

けっこう、いろんなこと考えてやってはいるんですよね。

 

<ワールドカップの主審に選ばれたときの心境は?>

まず、「よく残ったなあ」と。詳しく言うと、54人の中の8人がアジアのレフェリー。僕は新人だからその中の7番目か8 番目。経験者がいて、3人だけ新人で、僕はその中の一人だった。残るのは難しいよね、と思っていた。だから、難しいかなと思っていたけれども、若手の中で 一番期待されていた人が辞めたの。そのときに、残っているのは5人だった。行けるのは4くらいかなとは思っていたので、あとはもう地道にやるだけだと。

それで、南アフリカに出発する4人に選ばれて、4人のうち、本当に審判をするのは3人で、1人は交代だけしかやらない人 なので、行く前は「レフェリーだったらいいね」と言いながら飛行機に乗っている。だから、選ばれたときには「よく残ったね」という、大会には行けることに なったという気持ち…。

開幕戦を任されたのはイルマトフというアジアのレフェリーだったんだけど、アジアのレフェリーが開幕戦を任されるという のも快挙。それで、すごい!と思っていたら、自分たちの名前も呼ばれて「ええ??今呼ばれた??…呼ばれましたよねぇ」という感じ。それで、1日目のマッ チ1マッチ2ということで、アジアのレフェリーはすごく喜んだ。今までになかったことだから。それは大きな大きなことだったしね。

ヨーロッパのレフェリーなんかには、開幕戦やる気満々で来た人もいただろうから、それが「なんでお前らなんだ」みたいな ね。でも、僕はすごくラッキーだったのは、FIFAが大会前に選考してきて、僕らにあたったということは「君たちの基準でやってくれ」ということの裏返し だと思ったから、練習してきたことの通りにやってくれれば満足だと思って当ててきてくれているのならば、「じゃ、今までどおりにやればいいんだ」と思え た。だから、なんのプレッシャーもなく、大会に入っていけたのがよかったですね。任されたんだから、僕の基準でいいのね、っていう。結構ポジティブに考え る癖が付いているんですよね、これまた(笑)。

 

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<では、あまりプレッシャーはなかった?>

ないですね。ブラジル×オランダも、青とオレンジ、という感じで。素晴らしいプレーヤーたちですけど、「青の10番」「オレンジの9番」という感じで。「あ、ロッペンて言うんだ」みたいな(笑)。それぐらいでいかないとコントロールできないね。

 

<平常心を維持するには?>

そういう訓練も受けているので。今回のワールドカップの審判プロジェクトってすごくて、5部門に分かれていたんです。ひ とつはレフェリーテクニカルで、審判の技術を教える先生。それからフィジカルの先生は運動系を。で、3つ目にはメディカルといって、体のケアをするマッ サージ系の先生。そして4つ目には心理部門の先生が入るんです。あと5つ目にエナジーと言って“気”。その4番目5番目の先生というのは、ふつうはあんま りいない。日本ではあんまりないことなんで、そういった心理学の先生とともに平常心をちゃんと保てるとか、いつも通りの力を出すための部分でメンタルの 持って行きかたとか。エナジーでは、さっき言った「囲まれても大丈夫」という、3対1をなんとか1対1くらいに持って行けるような、そういったことを教 わっていました。なんでかというと、プレーヤーは本能でやっているから、動物が戦っているのとすごく似ているんです。だから「ダメ」とか「待て」とか言っ ても聞かない。でも、何らかのタイミングで、ぱっと本能が理性を戻したときにはすっと聞き入れてくれるところがある。そんな悪い人たちじゃないですから ね。ピッチ外では紳士的な人たちですから。だから、こちらが受け入れられるタイミングを見計らって、アプローチすると受け入れてくれるときがあるんです。 でも、受け入れられないときもあるんです。そういうのを、ぐっと見極めて、今だと思うときにぱっと行くと、受け入れらる。そういったトレーニングをしてい たんで、その普通で行けるメンタリティで、いつもどおりに堂々とやっていけばいいんだ、ということも言われていたんです。

僕らレフェリーからしてみれば、どの試合も決勝戦。チームからしてみれば、1回戦2回と優先順位という考え方もできるか もしれないけれども、レフェリーからしてみれば、そのときそのとき集まったプレーヤーのために全力を尽くすことは、1回戦でも決勝戦でも全く変わらないの で。だから「決勝戦を担当する」とか言ったプレッシャーも全くなかったですし。試合はどれも大事だと。

だから、Jリーグの1試合も、ワールドカップの1試合も、戸山戦の1試合も、僕にとっては何にも価値は変わらないから。 試合の重さっていうのは。やることも同じですからね。戸山戦の審判とワールドカップの審判で違いはあるんですか?と言われれば、ないです。ルールが同じで ある以上。プレイヤーのレベルは違ってもね(笑)。審判のやることはすべて同じだから。基準が何個もあるわけではなくて、(レベルの高い試合だからといっ て)そんな難しいことはやっていないんです。ただ、いろんなプレッシャーだったり、それに耐えられるメンタリティだったり、そういうものを鍛錬する必要か もしれないね。だから、それを裏付けられる経験・技術は必要で、継続、続けていくことというのが、今僕の大事にしているところです。継続する一番の柱とい うのは、選手のためにやるんだ、っていうことをちゃんと考えて、それだけに徹して。「主役」は選手で、僕らは、脇役、というよりも基本的には記憶に残らな ければそれが理想、という感じですね。

 

西村雄一さんロングインタビュー《新宿高生へのメッセージ》 (画像 1)

<言葉は?コミュニケーションはどうしているんですか?>

レフェリーの生活はベースは英語ですが、僕はあまり英語は得意じゃないんです。それに、いろんな国の人たちが集まってい て、日本人が話す英語も、スペイン人が話す英語も、英語圏の人以外の人が話す英語はみんな第2外国語の英語なんで、ほとんどレベルは変わらないんですよ。 英語圏の人はもちろん流暢に話しますけど、ほかはそれほど流暢に来るわけではない。ただ、日本語からだとちょっと有利ではないですよね。ほかは似ているけ れど単語尻が違う、くらいなので。

ピッチ上で話すとはいっても、僕らから言うのは「ダメ!」とかなので「No」っていうベースから入っていく事になる。語 学として大変なレベルではないです。その代わり、言葉が伝わらなくても、カードや笛の音で意思が伝わるじゃないですか。シグナル・距離感・間合いなどで意 思が伝わるので、そういった部分を“エナジー=気”の部分でカバーするんです。

 

<新宿高校で経験したことは、その後どんなふうに生かされた?>

僕は、委員長職を経験したというのが一番大きいです。何かをお願いしたり、そのお願いするタイミングだとか、あと、年間 通して企画を立てるとか、そういうのはそのあとの職業で生かされたんです。新宿高校を出たあと一浪して情報処理の専門学校に2年行ってコンピューター系の ことはいろいろ勉強したんだけど、その専門学校でいろいろ学んで「結局、これは道具だから最後は人間なんだよな」と思ったんです。機械はこういう風に動い ているというのをわかった上で、使う人間が使える人間だったらその道具は生きるけど、その道具を開発しても面白いことはあまりないな、と思って。その道具 はいいものなので、それを生かしてその人がハッピーになれるような提案をする、そういう意味で僕は営業職を選びました。

その営業職をやっているときに思ったのが、年間計画だとか、人にどういう風に使われたらいいのかな、とか、新宿高校で体 育委員長をやっていたときのことが、その営業職の最初のときに、すごく生きた気がしますね。総合的にいろんなことを考えるきっかけをくれたのが、この高校 での学校生活でした。

授業を受けているか、体育教官室で企画を練っているか、どっちかのイメージしかないんですよね。あのころは、ワープロが やっとPCになってきた時代。資料をつくるのにも何をするのにもすごく時間がかかるんですね。うまくできず、でもやらなきゃいけなくて。やってました。先 生の力はあまり借りずに。

たとえば体育祭なら出走チェックとかあるじゃないですか。そういった結構細かいとこまでやっていたんです。そういうのは、そのあとの営業職にはすごく生きて。そのまま、そのあとのレフェリーにもつながっていますね。

レフェリーやっていても、「そんな、最初からうまくはいかないだろう」と思ってたから。体育祭やるのにだって2年かかっ たでしょう、だから、まあ、「3年くらいはかかるんじゃない?」って。プロフェッショナルレフェリーとなったときも、先輩たちは名高い方が多かったんです けど、僕は若いうちに抜擢されちゃったんで、技量があるからという人たちとちょっと違うんですよね。「未来そうなるかもね?」くらいな。その、先物買いに 近いくらいのタイミングでプロになってしまったんで、それは最初からは無理だよ、と思って。まあ、3年間くらいで形になれば、なんて思って。それは、この 学校で、あのときに叩きあげてもらったものによるものですよね。すごく感謝しています。

 

<プロの審判、本気で目指すにはいつから?>

これは僕の経験からすると、私がレフェリーを始めたときにはプロフェッショナルレフェリーの制度がなかったんです。実 は、プロフェッショナルレフェリーになろうと思ってやった1試合もないんです。レフェリーってすごく簡単で、次に割り当てられている試合をミスなくコント ロールできたら、また次の1試合の割り当てをもらえる。もし、ミスしちゃうと、次の割り当てはできなくて、何週間かお休みをして、また別の機会にとなるん です。そもそも、プロフェッショナルレフェリーというのは、自分でなりたいと思ってなれるかというと、日本サッカー協会の技能があって、そのときに、さま ざまなタイミングが、例えばプロフェッショナルレフェリーの枠が空いていたり空いてなかったりというのがあるので、プロを目指すという意味で行くと、 ちょっと違うんですよね、プロのサッカーのレフェリーというのは。必要なんですけど。

一財を築くような、ゴルフのプロのようなものとは違うんですね。一財は築けないです。

僕が大事にしてきたのは、次の試合をちゃんとやることだけ、こだわってきたら、見る人が見ていて「こいついいぞ」っていうふうになって、次がつながってきたような気がするんですね。

「自分を選んで!」と思ってやった試合は1試合もなくて、みんなに引っ張ってもらった結果今がある。僕って、日本サッ カー協会の審判のプロジェクトの結晶なので。課題が与えられてそれをこなして、また課題をクリアして、その積み上げで来ている、というのが僕自身が今まで やってきたこと。プロになることは決して目標ではなくて、技能があるからプロになるという、そういう考えかたなんですよね。

忘れちゃいけないのは、自分が次にしなくちゃいけないことだけはしっかりつないでおくということ。それがなくては先もつ ながらない。かなり先を見ちゃうと、いろんな落し物があったり、回り道なんかがあるかもしれない。本当に大事にしなくちゃいけないものは次にあって、それ を積み上げたら、今振り返ってみたら「ああ、そうだったな」って感じになるんです。レフェリーは、必要なプロなんですけど、アプローチを間違えると、勘違 いしたレフェリーになってしまう。自分のために笛を吹くことになってしまったら、そのレフェリーはたぶんダメなんです。選手のためにどれだけ徹するか、と いうことでやっていると、自分のことは多少犠牲にしてもね。

20年間やっていて土日はないので、ほとんど親父やおふくろとどっか旅行に行ったってこともないくらい。ですけど、それ が今、こういう風になっているということは、誰も想像できなかったし、僕もそんなことを思ってやっていなかった。ただ選手のことを思ってやっていたら、今 こうなった。それが、僕の言えることですね。

 

<最後に、今の新宿高生にメッセージを>

もし、自分がはっきりした夢を持っていたりやりたいことがあるのであれば、それに向かって全力でやってほしいと思いま す。そういう人は、いろんなことがいつもポジティブにできる人だと思うんですけど、今、明確な夢を持っていないように感じているのであれば、実はその周り にいる人たちの中で、自分に対して夢を持ってくれている人が絶対にいるはずなんです。「僕には今夢がわからないけど、周りにいる人が頑張ってと言ってくれ る」とか。両親が一番いい例だと思うんですけどね。そうした、自分を見ている人がこうしてほしいと思っているものを叶えてあげるというのが、かえすと、自 分の夢を叶えたことになると思います。ちょっと難しいことを言っているかもしれないんですけど…。

自分に期待してくれている人の夢を叶えるということは、自分にとっても夢になる、というかね。

そうすると、誰もが必ず夢を持って行動できるはずなので。そういう事に気づいて行動したら、今の1秒1秒がすごく大事な ことに思えてくるはずです。決して、なんかただ過ぎちゃったな…というのではなくて、早く気づいて前向きに、ポジティブに、意欲を持って、見つけたら人生 が変わってくると思います。

誰にも期待されないで生きてる人は、たぶんいないんですよね。誰かが、頑張って!って応援してくれたりするので、その思 いを叶えてあげるっていうのは、1つ夢を叶えることと全く変わらないことなんだと思うんです。今回僕は、相当な人に応援していただいて、帰国してからも、 「このあとも応援してます」って言ってもらえて思ったことは、その応援にこたえることは、その人の夢を叶えることになる。それは絶対に悪いことじゃない な、って。それは無限の力になる…。

こちらにお邪魔させていただいて、僕は次の、よりいっそうがんばんなきゃいけないなっていうパワーをもらえたと思ってい るんです。今日、本当にそれぞれのみなさんが目をキラキラさせて聞いていただいていたのを前からみていて、またこの後頑張らなきゃいけないなと思ったし、 頑張れるなと思ったし…。

くじける原因はこの先いっぱい出てくると思うんですけど、それを背中を押して応援してくれる人のほうが多いんだっていうことに気づいているので、たぶん、いろんな逆境が来たとしても、絶対乗りこえられるなと、そういう風に思っています。 今回お邪魔させていただいたことは、本当に、心から感謝しています…。

西村雄一さんロングインタビュー《新宿高生へのメッセージ》 (画像 2)

-南アフリカワールドカップから帰国後の大変お忙しい時期に、講演会・座談会の依頼を「母校のためならよろこんで」と引き受けてくださった西村雄一さん。

座談会前には同窓会や教職員、ファンの女の子、サッカー部員に快くサインしてくださったり、声をかけてくださいました。

インタビュー後にはPTA役員に「遠慮しないで!みんな写真撮りましょうよ。メダルは僕じゃなくてみなさんがかけてください。あ、名札は取ったほうが綺麗に取れますよ」と心遣いをいただきながら、記念写真を撮らせていただきました-

西村雄一さんロングインタビュー《新宿高生へのメッセージ》 (画像 3)

 

 

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