閻魔大王の巨大像
新宿二丁目。新宿高校の正門のすぐ前である。
いわゆる「二丁目」といえばここを指すことからも分かる通り、日本で一番有名な町区分かもしれない。
言わずもがな、ゲイ・レズビアンなど同性愛者向けのバーや飲み屋が充実している街として、全国にその名が広まっている。
だが、そんな新宿二丁目に「赤ん坊を食い殺した木像」が現存しているのを知る人は、どれだけいるだろうか。
太宗寺は、狭い路地がひしめく二丁目で、ひときわ広大な敷地が目に付くお寺である。
太宗寺
江戸六地蔵の一つに数えられる「地蔵菩薩坐像」や「切支丹灯篭」など文化財も数多い。塩を奉納する「塩地蔵」も有名で、江戸時代には新宿の民間信仰の拠点ともなっていた。
そんな太宗寺の目玉とも言えるのが、閻魔大王の巨大像。
暗いお堂の中に安置されているのだが、観覧用に電灯のスイッチが備え付けられている。
ボタンを押せば、一分間だけ灯りが点灯。金網ごしに覗いてみると……
気の弱い人なら悲鳴をあげてしまうような巨大閻魔が、キッとこちらを睨みつけている! 見た目だけでも恐ろしい閻魔様だが、この像にはなんと、赤ん坊を食べてしまったという恐怖のエピソードまであるのだ……。
■閻魔様の恐怖のエピソード
江戸時代、太宗寺の付近は遊郭が立ち並ぶ、いわゆる花街として栄えていた。当時から狭い路地には人がひしめきあい、子どもを遊ばせるには太宗寺の境内しかなかったのだろう。このお寺は、大勢の乳母が子どもを連れてくる場所であった。
ある時、一人の乳母の背中で、赤ん坊が大声で泣きはじめた。
いくらあやしても、子どもは泣き止まない。
業を煮やした乳母は、赤ん坊に向かって
「そんなに悪い子だと、閻魔様に食べられてしまいますよ」
と声をかけたのだ。
すると、赤ん坊の泣き声はピタリと止んだ。ようやく言うことを聞いてくれたと安心した乳母だったが、少しして違和感に気付く。
背中が、やけに軽い。振り向くと、さっきまで自分が背負っていた赤ん坊がいなくなっていたのだ。
慌てて境内を探してみても、子どもはどこにも見つからない。ようやくして閻魔大王の像まで辿りついた途端、乳母は悲鳴をあげた。閻魔の口から、一本の紐がダラリとぶらさがっていたのだ。それは、先ほどまで自分と赤子を結んでいたおんぶ紐だった!
何気なく発した言葉どおり、赤ん坊は、閻魔に食べられてしまったのだ。
■このエピソードに含まれる意味とは?
これが、閻魔像が「つけひも閻魔」と呼ばれるようになった由来である。
地獄の大王がそんな野蛮なことするなよ、という話だが、付近の子どもたち大人しくさせる方便で作られたものだろう。そして別の視点から見れば、この辺りでは赤ん坊を預ける乳母が必要とされていた、つまり女性労働者が多かった、という歴史もうかがえる。
宿場町として栄えた内藤新宿の、さらに風俗街として知られた太宗寺近辺。ここで売春を行う女性たちは、表面上は食事を提供する女給という扱いだったため「飯盛女(めしもりおんな)」と呼ばれていた。農村から人身売買によって連れてこられた彼女たちを、店側は商品としてしか扱わず、その労働環境は吉原の遊女と比べてもかなり苛酷だった。
昼は宿のスタッフ・夜は売春と一日中働かされるケースもあり、20歳前後で発狂や死亡する女性も数多く、遺体はそのまま近くの成覚寺に投げ込まれた。
奪衣婆
閻魔像の隣には、これまた巨大な奪衣婆の像が座っている。「着物を脱がせる」繋がりからだろう、飯盛女たちの信仰を集めたのは、閻魔よりむしろ奪衣婆の方だった。彼女たちにとっては、強権的な男性である閻魔より、老女である奪衣婆の方が共感できたのだろう。
太宗寺の裏手の正受院にも奪衣婆像があるが、こちらは子食い閻魔と違い、子どもの咳止めや疳の虫を止めてくれる優しい婆さんである。お願いが叶った時には綿を奉納するため、頭に綿をかぶせられており「綿のおばば」の愛称でも呼ばれている。
綿のおばば
正受院の隣の成覚寺は、過酷な労働や性病などにより死んだ飯盛女のための「投げ込み寺」だ。引取り手がないため投げ込まれた遺体は三千人以上ともいわれ、彼女らを弔った「子供合埋碑(こどもごうまいひ)」が境内の脇にひっそりと佇んでいる。
これら“二丁目寺院”を訪ねれば、当時の飯盛女たちの面影を知ることが出来るだろう。
こうした状況を考えると、赤ん坊を食い殺す「つけひも閻魔」の伝説には、飯盛女から男たちの横暴で野蛮な側面へと向けた、ささやかな揶揄が含まれているのかもしれない。
■吉田悠軌(よしだ ゆうき)
怪談サークル「とうもろこしの会」会長。怪談やオカルトを「隠された文化」として収集・研究している。著書に『放課後怪談部』。編集長を務める同人誌『怪処』ではオカルト的な場所を広く紹介。
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