新宿高校 入試問題
新宿高校 入試問題
昭和47年(1972年)2月24日実施
もちろん都立高校は全部この問題
▼入試問題▼001▼
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朝陽同窓会館
1971年6月8日
今はもうないけどね (T_T)
「新校舎」完成
1969年の完成時点での 「新校舎」。
朝陽27メンバーが3年間を過ごした校舎。
今はもう壊されてありません。
建設中の「新校舎」
学校群制度 第1回入試を実施
1967年 – 東龍太郎都知事時代、小尾乕雄(おびとらお)教育長の主導によって都立高校入試に学校群制度が採用されることとなった。
1966年4月に同制度の構想を公表、7月に導入を正式決定、1967年2月に同制度による第1回入試を実施と、構想の公表から入試実施まで1年足らずであった。
詰込教育批判への対応から学力試験の科目数が9科目から3科目へと削減され、9科目の内申と学力試験とを実質的に同等に評価することとなった。
同時に、第二志望を認めるしくみをなくし、不合格者は学区内での成績いかんにかかわらず都立高へは進学させないこととなった。
学校群制度は美濃部亮吉都知事時代にそのまま引き継がれ、鈴木俊一都知事時代の1981年まで存続した。
* 制度導入の背景として、受験戦争の過熱があった。とりわけ、旧制時代のナンバースクールをはじめとする名門校には、希望者が殺到していた。住民票を当該校学区内に移しての越境入学が常態となり、都民からは不満の声が上がっていた。
* 都立の特権進学校をなくし八ヶ岳的に進学実績がなだらかになることを狙ったものと云われているが、国立や私立高校、ひいては私立中学へ受験生が流出し都立高校の進学実績が全般的に低下することになった。
また、これ以降、15歳どころか12歳の春を泣かせることになり受験競争の年齢が更に下がることになった。
あるいは当初の多様性を狙いとするのなら国私立も含めた大枠からの施行であるべきところ、単に国私立の特権校をつくりだしただけだ、などとの批判も根強く、学校群施行前から指摘されていた。
つまり社会科学的見地からも選択肢の多い東京など大都市圏では特にその実効性を上げ難いことが云われていた。
内申点の重視は、中学生の部活動加入を高め、また偏差値による輪切りが見られるようになるなど、戦後民主主義の思想的潮流と同時に当時の管理教育の時代背景があることも見逃せない。
* 学校群編成にあたり、旧制中学系と旧制高女系の一流校は基本的に同一の群とされ、名門校の温存が図られた。その結果、学校群内の学力は均質になったものの、今度は学校群間に格差が発生した。
第二志望が認められなくなったため、高学力の難関学校群不合格者はいわゆる滑り止め高などの私立高校へ流出することとなった。
また、もともと校風の全く異なる学校(学校群以前において、旧制中学系高校は男子、高女系は女子の定員比率が高く設定され、旧制以来の校風が残されていた)同士を組み合わせたため、本来の志望校以外に振り分けられた場合の違和感は大きく、多くの都立棄権者を出すことになった。
* 学校群制度は、その内容から俗に「日比谷潰し」と称された。同校は九段及び三田と学校群「11群」を形成したが、
(1)他の主要学校群がおよそ二校なのに比して三校で群を形成、
(2)受験生の意思による単独での学校選択が出来なくなったこと(その他に部活動に関しても、入学後は野球をする意志のある者は当時野球部が存在しなかった三田には入学しないであろう)、
(3)住民抄本提出の義務等など学区外からの越境入学が難しくなり受験出来る者が限られたこともあり、志願者層の変化が起こったこと、
(4)1965年の進学指導中止を申渡す「第1次小尾通達」もあり、学園紛争の影響下、都立各校では進学指導を中止する動きが広まったことや補習科の廃止など、教える側の熱意が奪われたこともあり教育内容面での変化も起きたこと、
(5)新中間層の出現など大衆受験社会の到来もあり時代的に国私立の中高一貫校の台頭など進学ルートの多様化が既に見られたこと
など、その他の要因(学校個々の文化資本、ドーナツ化現象etc)もあるにせよ東大合格者数トップの座を失い、以後も同じ都立高である西や戸山等と比較しても急速に東大合格者数上位校からもその名が消えることになった。
1977年 – 文部省から国公立中学・高等学校に「ゆとり教育」の方針が打ち出される。
1982年 – 学校群制度廃止。
新宿高校に改称
1943年 東京府立第六中学校から、東京都立第六中学校と改称。
1948年 → 東京都立第六新制高等学校と改称。
1950年 → 東京都立新宿高等学校と改称。男女共学となる。
六中&新宿高校 という歴史なのですが わずか2年間だけ 「新制六高」でした
旧制六高(現在の岡山大学)と まぎらわしいですが 何の関係もありません (^_^;)
新宿駅
▲明治40年ころの新宿駅
1885年(明治18年)に日本鉄道により現在の山手線が開業したのが当駅の始まりである。
4年後の1889年(明治22年)には南豊島郡淀橋町となる。開業時から新宿を副都心にする計画が発表される迄は当駅周辺はまだ街の外れであり利用客は少ないものだったが、大正期に入り次第に市街地が拡大するにつれ、多くの私鉄が乗り入れるようになる。ターミナルとなって周辺が発展するにつれて利用客は増え続け、さらに1960年代から当駅西側一帯で進められた新宿副都心計画によって多くの超高層ビルが建てられ、利用者の増加に拍車がかかった。
そして、1966年(昭和41年)に池袋駅を抜いて乗車人員数日本一になった[1]。同年の当駅の乗車人員数は44万69人で、池袋駅の44万67人をわずか2人上回っての日本一だった。
現在ではJR・私鉄・地下鉄の多くの路線が周辺地域のベッドタウンとを結んでおり、多くのビジネス客が利用する。また、当駅周辺は日本最大の繁華街・歓楽街となっており、昼夜を問わず人の流れが絶えることはない。JRの駅を中心に東・西・南口、周辺の各地下鉄駅、商業施設などが通路や地下街などで広範囲に連絡している。
一日平均乗降者数は346万人と世界一(ギネス世界記録認定)多い駅であり、地下道などで接続する西武新宿駅まで含めると364万人以上になり、この数字は横浜市の人口に匹敵する。
内藤新宿 復活
内藤新宿は、品川(東海道)、板橋(中山道)、千住(日光街道、奥州街道)と併せて四宿(ししゅく)と呼ばれ、江戸の新たな行楽地としても発展し、岡場所(非公認の売春宿)などが繁盛して、
「四谷新宿馬の糞の中で あやめ咲くとはしほらしい」
(馬の糞は活発な馬の往来、あやめは飯盛女・遊女を意味する)と狂歌に詠われている。
これらが災いし、1718年(享保3年)に風紀上の理由から一時廃駅となるも、1772年(明和9年)には復活している。
歓楽街としての新宿の原型は、この時代に既にあったといえるだろう。
このころ太宗寺は、江戸六地蔵のひとつに数えられ、庶民の信仰を集めていた。
また成覚寺は、遊女などの投げ込み寺であった。
投げ込み寺と言えば 三ノ輪の浄閑寺 (T_T)
宿場「内藤新宿」開設
元禄12年(1699年)に新しい宿場「内藤新宿」が開設された
内藤新宿(ないとうしんじゅく)は、江戸時代に設けられた宿場の一つ。
甲州街道に存在した宿場のうち、江戸日本橋から数えて最初の宿場であり、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(青梅街道)の起点でもあった。
現在の住所では、東京都新宿区新宿一丁目から二丁目・三丁目の一帯にあたる。
東海道の品川宿・中山道の板橋宿・日光街道(奥州街道)の千住宿と並んで、江戸四宿と呼ばれた。地名から四谷新宿と呼ばれることもある。
仮宿場「内藤宿」できる
江戸時代、甲州街道は江戸から甲府までの主要街道として整備されたが、第一の宿場は高井戸であり、距離が長く、旅人は難儀をしたという。
そのうち、現在の新宿二丁目近辺に人家ができ、1625年(寛永2年)には住民の願いにより、太宗寺門前の町屋ができ、これを内藤宿と呼ぶようになった。
「宿」とはいっても、正規の「宿場」ではなく、甲州街道や成木街道(現:青梅街道)を利用する人馬が休憩所として利用していたので、「新宿」と呼び習わすこととなったという。
新宿は 二丁目から 始まったんだね (^_^;)